2009年02月19日

小説 STAR OCEAN 2 〜 ネーデ編 第五章(3)

   3 星の鎮魂歌《レクイエム》 〜フィーナル(4)〜

 彼は、空を見上げていた。
 周囲のパネルが忙《せわ》しく動き回る巨大な球体。その横で、乾いた風に赤毛を靡かせながら、厚い雲に覆われた上空を眺めている。下は一面の荒野。その向こうには枯れかけた山並み。何の面白味もない景観だ。
 彼は、渇望していた。
 かつて見た青い空を。ふんだんに浴びていた陽の光を。緑溢れる大地を。生に満ちていた風の香りを。そして、いつも自分に寄り添っていた少女の温もりを。
 けれど、もはやそれらは戻ってこない。永遠に。
 凡《すべ》ては手遅れだったのだ。私は私の愛するものを自ら失い、そして今、失わせようとしている。いったい何のために? 復讐? 怨恨? 憤怒? 悲嘆? 哀憐?
 ──絶望。
 そうだ。それが今の私だ。絶望こそが私のすべて。私に相応しい動機だ。
 生あるものは死す。生あるものを愛する。しかし、愛するものは死す。愛が深ければ死もまた深い。ならば愛など要らぬ。生も死も、私は望まぬ。自らの消滅こそが、私の本懐なのだ。
「フィリアよ。私が赦せぬか。私の愚行を認められぬか。ならば私はお前の誹《そし》りを、大いなる哀しみを甘んじて受けよう。それが私の為せる唯一無二の贖罪《しょくざい》なのだから」
 彼の左目から涙が零《こぼ》れ、頬を伝った。右目は何ひとつ変わることなく、空を見続けていた。


 延々と続く階段を、七人は無言で登っていった。最初にフィーナルへ乗り込んだときと同じ、不条理にまっすぐ延びた階段は、永遠にも近い時の流れを演出し、やがて唐突に終息する。
 赤黒い不吉な床に、異様な幾何学模様の描かれた壁。テラスめいた向こう側には、翡翠色の球体が台座の上に浮遊している。以前見たままの部屋が、彼らの前に広がった。ついに最深部に到達したのだ。
 球体を取り巻く無数のパネルは、前に見たときよりも激しく動き回っていた。ナールの言う通りあれが崩壊紋章ならば、発動が近い兆候なのだろうか。
 そして、それを見上げている背中がひとつ、部屋の中央にあった。闖入者《ちんにゅうしゃ》に気づくと、灼熱の髪が揺れ、白いコートが靡く。
「……立ち去れ、呪われし魂よ。ここは貴様らが来るべき場所ではない」
 小声だったが、それは幾重にも反響して増幅され、彼らにもはっきりと伝わってきた。まるで部屋そのものが語っているように。
「ランティス博士」
 レナが進み出た。懐かしい名前で呼ばれ、ガブリエルは徐に振り返る。
「私は、フィリアさんに会いました」
 クロードたちが驚きの眼差しを向けた。レナは心を落ち着かせつつ、続ける。
「フィリアさんは私に言いました。『父を止めて。そのために、私を殺して』って。……フィリアさんは、あなたのことを哀しんでました。自分のせいで道を外してしまったあなたのことを哀しんでました。お願い、もうやめて。これ以上フィリアさんを哀しませないで。彼女が死んだのはあなたのせいじゃない。ルシフェルが計画にあなたを利用するために殺したのよ。だからもう一度、あなたの愛したフィリアさんのところに戻ってあげて。彼女の愛したあなたに戻って」
 最後は感情に任せて一気に口走ってしまった。少女が願ったのは、あまりにも憐れなこの父娘を救いたい、ただそれだけだった。
「……崩壊紋章は完成した」
 だが、ランティスであるところのガブリエルは、非情にもそのことを告げた。
「凡ては、遅すぎた。もはや何者も我を阻むことは叶わぬ。そう……たとえフィリアとても」
「ガブリエル」
 クロードが言った。超然とした決意を胸に秘めて。
「お前があくまで宇宙を崩壊させようというなら、僕らはすべてを賭けてそれを阻止してみせる。もう躊躇いはしない」
「クロード?」
 レナが困惑した顔をクロードに向ける。彼は、静かに首を横に振った。
「奴の言う通りだ。もう、手遅れなんだよ。僕らにできるのは、あいつの哀しみを全力で受け止めてやることしかない」
 そう言って剣を抜き、赤毛の男に切先を突きつける。
「行くぞガブリエル。これが本当の最後だ!」
 クロードの言葉で仲間たちも決意し、それぞれ身構えた。
「我に楯突くは天に唾するが如し。その愚かしさを身をもって知るがいい」
 ガブリエルの身体から神々しいほどの霊気が放たれた。足が地面を離れると同時に、彼の頭上に光が生じ、そこから何かが出現しようとしていた。後光が輪郭をなぞるは白い翼。ガブリエルをすっぽり覆ってしまうほど大きな双翼の持ち主は、星々のように煌めく光の粒を纏いながらゆっくりと降りていく。
〈聖ルチアの加護の下、ベアトリーチェは降臨せり〉
 重々しい声が部屋に響きわたった。その荘厳さに我知らず畏怖《いふ》の念を抱いてしまうほど。目の前では翼を持った天使がガブリエルに舞い降りている。誰もかもが矮小《わいしょう》な自分を感じずにはいられなかった。
 光が薄まり、天使の姿が徐々にはっきりと見えてきた。衣を纏わぬその肢体は人間の女性が持ちうる姿を凌駕《りょうが》しており、まさに神懸かりともいうべき完璧さを具していた。
「……そんな……!」
 だが、レナは天使の貌を見るないなや、その事実に目を疑った。
 それはフィリアだった。赤くしなやかな髪を振り乱し、深い愁いを湛えた瞳を伏せて、彼女はガブリエルの背中を守護するように浮遊している。なぜ?
「罪人《つみびと》たちよ。死出の扉は開かれた。私が冥界への案内人《ヴィルジリオ》だ。誘ってやろう、死と破滅の旅へと」
 クロードがガブリエルの許に駆け出した。気後れしていた仲間たちを奮い立たせるように気勢を揚げる。それが、最後の戦いの始まりだった。
 気合を込めて振り下ろした剣は目に見えない力によって阻まれた。ガブリエルが手を前に突き出して光弾を放ち、それを食らったクロードは手もなく突き飛ばされる。続いてエルネストが、オペラがボーマンが間髪容れずに攻撃を仕掛けるが、相手はことごとく受け流して微動だにしない。手をこまねいているうちにガブリエルは衝撃波を放出し、周囲の人間をまとめて吹き飛ばす。その口が呪紋を紡ぐと背中の天使が腕を振り上げて、炎の渦を、氷柱の雨を、迸る電撃を巻き起こす。
「サザンクロス!」
 間隙をついてセリーヌが唱えた。虹色の流星が暗黒の天井からいくつも降り注ぐ。しかし天使が翼を悠然と搏《はばた》かせると流星は瞬時にして無数の砂粒となり、七色の光を残してさあっと消滅した。
「まさか」
 セリーヌは目を見開いて愕然とした。仲間たちの間にも戸惑いが生じた。やはり、こいつを倒すことはできないのではないか? 人間が神に敵わぬように。
 ところが、その呪紋の合間にディアスが背後に回りこんで、至近距離からクロスウェイブを放った。交叉した衝撃波はガブリエルの背中を襲ってコートの裾を破り、天使の翼を突き抜けて羽を何枚か落とした。ガブリエルは前によろめく。初めて攻撃が通じた瞬間だった。こいつも不死身ではないのだ。彼らの士気が再び揚がる。
 さらにクロードが跳躍して闘気を込めた剣を振り下ろし、炎の弾を叩きつけた。弾はやはり跳ね返されてしまったが、重い一撃にガブリエルと天使の身体は大きくぐらついた。いける。
 そう思ったとき、ガブリエルが再び何かの呪紋を唱えた。フィリアの貌をした天使が両腕を掲げると、掌の中間に針の先ほどの光が生じ、調律の狂った管楽器のような音を立てだした。セリーヌははっとした。同じ紋章術を操る者だからこそわかる、予感。
「みんな、逃げて!」
 セリーヌの言葉も空しく、それはひといきに炸裂した。光が激しい熱を伴い、熱は彼らの身を灼き焦がした。体内の水分を奪いつくしてしまいそうなほどの熱風。目が潰れんばかりの光の洪水。踊り狂う爆発の嵐に、腕がもげ、脚が潰れ、全身がバラバラになったのではないかと恐怖すら感じた。レナがあらかじめ全員にかけておいた防護呪紋《アンチ》がなければ、まさしくそれは現実のものとなっていたに違いない。
 光と熱と爆発は突然収束し、治まった。少なくとも彼らにはそう思えた。
 ガブリエルは唱える前と変わらぬ姿で立っていた。人間たちは部屋のそこここで伏している。熱に浸された全身は感覚が麻痺して、指一本動かすこともできない。
「今、愚昧なる魂に鉄槌が下される」
 床に散らばる人間たちを睥睨《へいげい》してから、再び呪紋を唱えようと口を開く。が、喉から声が出ない。喘ぐように口を大きく開け、喉の奥に力を込めても、呪紋の言葉だけはどうしても出てこない。
「おのれ……フィリアか」
 苦痛に顔を歪め、喉を掻きむしるガブリエル。そして、天に向かって狂人のごとく喚《わめ》いた。
「邪魔をするなフィリアよ! ……よかろう。お前があくまで人間の味方をするというのなら、私が今すぐ引導を渡してくれるわ!」
〈ファイルオープン。解除プロセス開始〉
 激しく動揺しているためか、ガブリエルの内なる命令が外にも洩れ聞こえてきた。
〈プロセスは拒否されました〉
〈ファイル消去。自己プログラム起動。命令「リミッター解除」〉
〈解除不能。システムは人格《パーソナリティ》「フィリア」によってプロテクトされています〉
〈人格《パーソナル》コントロール起動。命令「フィリア消去」。解除コード「GksLCjkgnuFBhFSJj」〉
〈コードは認証されません。ガードプログラム作動。システムロック開始〉
〈破壊《クラック》、破壊《クラック》、破壊《クラック》……〉
 ガブリエルが自らの内部に集中しているうちに、クロードたちの痺れは回復し動けるようになった。奇妙な命令とそれに抵抗する命令とが交錯する中、彼らは怒りの形相のまま立ちつくすガブリエルを見た。
「どうしたんだ?」
「わからない……けど、これはチャンスかもしれない」
 クロードが目配せすると、仲間たちも頷いた。
「いくぞ!」
 セリーヌが詠唱を始め、クロードたちが再び武器を構える。またとない好機に、心臓が早鐘を打つ。彼らは待った。その瞬間を。
「エクスプロード!」
 セリーヌが唱えた。ガブリエルを中心に大気が凝縮され、一気に膨張する。爆発が華のように咲き乱れ、焔が男と天使の姿を覆い隠す。むろん、それで倒せるとは誰も思っていなかった。
 爆発がまだ治まりきらないうちにボーマンが駆け出した。ガブリエルの懐に潜りこみ、猛然と拳を叩きつけていく。最後の一撃を繰り出すと、すぐにその場を離れた。背後に控えるはオペラ。
 彼女はありったけのエネルギーを銃に注ぎ込んで砲撃を放った。さらにエルネストが鞭を振るい大気の渦を発生させてガブリエルにぶつける。渦は真空の刃となって男の身体を幾重にも切り刻む。
 ディアスが剣を掲げた。刃に炎が宿り、それを振り下ろすと炎は朱の鳥となってガブリエルに襲いかかった。そしてクロードが止めを刺しに走り出す。崩れゆく朱の鳥の向こうに赤毛の男の姿が見える。渾身の力を込めて彼は剣を振り下ろした。
 しかし、剣は途中で引っかかって止まった。反物質の刃は、ガブリエルの手に握られていた。信じられないようにそれを凝視するクロード。
「邪なる魂よ。どこまでも我を冒涜《ぼうとく》するか」
 ガブリエルは額から血を流しながら、言った。纏っていたコートも埃と血にまみれて汚れ、解《ほつ》れていたが、むしろその姿は凄絶な殉教者を思わせ、クロードはぞっとした。
 ガブリエルの指先に閃光が煌めく。と思う間もなくクロードは大きく弾き飛ばされた。剣が手から離れ、部屋の片隅に投げ出される。
〈悪しき者どもに相応しき地へ〉
 どぉん、と、なにか重いものが地面に落ちたような音がして、振動が起こった。ガブリエルを中心として、蜘蛛の巣状に亀裂が走る。程なくして地面が大きく揺さぶられ、亀裂が大きく口を開ける。
「うわあっ!」
 足場が急になくなり、奈落へと落ちかけたクロードは、咄嗟《とっさ》に床にしがみついてどうにかやり過ごす。ホッとしたのも束の間、彼の背後で甲高い悲鳴が上がった。
「レナ!」
 彼女は足を滑らせて亀裂から落ちようとしていた。クロードは手前の亀裂を跳び越えてレナのところに駆けつける。赤いケープが地面の下へと沈んでいく。クロードは亀裂の縁に身を乗り出して手を伸ばした。その手がレナの手首をつかんだものの、彼女の重みでクロードも奈落へと引きずり込まれる。手首を掴《つか》んでいない方の手と両足で踏ん張って、腰から下はどうにか地面に残った。
「クロード!」
「待ってろ……すぐに……あっ!」
 レナの腕をしっかり握り直そうとしたとき、汗で滑って手首を掴み損ねてしまった。また落下しかけたところを慌てて掴んだのは、レナの四本の指先。これではレナも握り返すことはおろか、ろくに身体を動かすこともできない。
「クロード……」
 レナはクロードを見た。彼女はクロードの握った四本の指だけを頼みにして、そこにぶら下がっている。足許には暗黒の空間が、獲物を心待ちにした怪物の大口のように広がっていた。
「大丈夫。大丈夫だっ」
 自分にも言い聞かせるように、クロードはレナを励ました。歯を食い縛り、彼女の指先を必死に握りしめ、このまま引き上げようと腕に力を込める。だが、甲斐なくクロードの身体はさらに沈み、そのはずみで握っていた四本の指のうち、小指が外れた。
「くっ……くそっ」
「だめ。だめよ。あなたまで落ちちゃう」
 レナが青ざめた顔で言った。人差し指が外れる。
「もういいよ、クロード。手を離して」
「諦めるなあっ!!」
 クロードが顔を上げて叫んだ。その瞳から大粒の涙がこぼれて、レナの頬に落ちた。
「クロード……」
 レナは目を細め、うっすらと涙を滲ませた。そして、微笑みかける。
「ありがとう」
「レ……」
 二本の指が同時に外れた。少女のちいさな身体が闇の底へと吸い込まれていく。
 鮮やかな青い髪があっという間に暗黒の淵に沈んで、やがて消えた。
 クロードは上半身を床下に落としたまま、闇に突き出された自分の手と、その向こうに消えていった少女の幻影を、虚しい暗黒の空間の中に見出した。最後に見せたあの笑顔が、網膜に焼きついたまま離れない。凍えたようにガタガタと震えながら、彼は待った。ひたすら待って、時が経過して──どれだけ待っても、何も起こりはしない。しまいには自分が何を待っているのかもわからなくなった。僕はいったい、なにをしているんだ?
 衝撃が地面に伝わり、ぐらぐらと揺れた。誰かが戦っている。誰と? そう……ガブリエルと。
 クロードはレナの指を握った感覚がまだ残る手で、亀裂の縁に触れてみた。それは、今までとはまるで違う感覚がした。別の次元の別の世界のものを触っているようだった。両手をついて身体を起こし、傍らに落ちていた剣を拾い上げて、ゆっくりと、時間をかけて立ち上がった。そして顔を上げ、仲間を駆逐する天使を纏った男を見る。
 その途端、彼の中にあった凄まじいものが解放され、全身に流れ込んだ。カッと目を剥き、彼は理性をなくした獣のように吼えた。

 ガブリエル──────!!!

 クロードを中心として壮絶な闘気の渦が巻き起こる。ガブリエルと仲間たちはそれに気づいて振り向いた。
 そこで彼らは見た。両手で剣を掲げるクロードと、その頭上に現れた巨大な影を。猛々しく広げられた翼と、黒光りする鱗で覆われた胴体をもつ、黒き竜を。幻などではない。その竜は、確かにそこに存在していた。
「吼竜破が……昇華した?」
 ディアスは──そう、彼だけは、前兆を何度も目撃していた。クロードが吼竜破を放つ度に見た、黒い影。あの影が、クロードの手によって竜へと昇華したのだ。
 そして、この場の誰もが知らないことだった。かつて、ひとりの若き剣士が同じように黒き竜で敵を滅ぼしたことを。それは彼の遠き世界の友により、世代を越えて、ここに再び蘇ったのだ。
 ──戦いの記憶は、血によって受け継がれる。
 クロードの激情に呼応するように、黒き竜は顎《あぎと》を開いて咆哮をあげる。全身に電撃がみなぎり、火花がばちばちと爆ぜる。
「くらえいっ、黒竜天雷破あぁッ!!」
 クロードが剣を振り下ろすと、竜は漆黒の翼を翻し、稲妻を纏いながら赤毛の男と天使に襲いかかった。鋭い牙がガブリエルを捉える。轟音とともに物凄まじい電撃が炸裂し、光が部屋を鮮烈に満たす。黒竜はなおもガブリエルに食らいついて放さず、そのまま崩壊紋章の横まで引きずると、そこでようやく口を開いて放した。地面に落とされた瞬間、ガブリエルの背中から天使の姿がすうっと消えた。役目を終えた竜は上空に昇っていき、天井の闇にまぎれて消えていった。
 ガブリエルはうつぶせに倒れたまま、ぴくりとも動かない。黒竜が浴びせた電撃で髪も服も無残に焼き焦げ、そこから黒い煙が立ちのぼるばかり。それを確認するかしないかのうちに、クロードは膝をつき、両手をついて項垂《うなだ》れた。
 すべては、終わった。でも、これじゃあ何にもならないじゃないか……!
 床を引っ掻くようにして拳を握りしめ、ギュッと目を瞑る。瞼から滴がひとつぶ落ちて、床に吸いこまれる。
「倒した……のか?」
 ボーマンが、セリーヌが、クロードの許へと集まる。彼はまだ膝と手をついて、地面を睨んでいた。
 戦いの終焉《しゅうえん》を誰もが確信したそのとき、それは勃然と起こった。
「!!」
 不意に食らった衝撃にクロードは一瞬にして壁に叩きつけられた。自分の身に起きたことを考える隙《ひま》もなかった。立とうとしても、身体が重くて思うようにいかない。まるで全身に鉛の枷をつけられたようだった。壁際で這いつくばり、どうにか顔だけ上げると、他の仲間たちも同じように壁の隅で身動きがとれないでいた。
 そして前に目を向けると、崩壊紋章の傍らに倒れていたガブリエルの身体から、夥《おびただ》しい霊気が放出されていた。背中がピクリと動き、まるで糸で吊った人形のように頭が持ち上がる。そして両手をだらりと下ろしたまま、人間らしからぬ動きで身体を起こす。その両眼は身震いするほど鮮やかな紅色に輝いていた。
「そんな……まさか」
 死んでなかった? 天使は消えたというのに。
〈貴様が殺したのは、フィリアであった一部のみに過ぎぬ〉
 クロードの心の問いに答えるように、声は言った。
〈フィリアは我を制御するリミッターでもあった。それが消滅した今、我は内なる能力を凡て解放し、貴様らの魂を悍《おぞま》しき煉獄へと導いてやろう〉
 突如として足許の床が崩れ落ちる。床だけではない。壁も崩壊紋章も向こうの空や山並みさえも、まるで何もかもが扁平《へんぺい》な硝子板であったように、幾千幾万もの破片となって消滅していく。なすすべもなくクロードは闇の中を落ちていく。いや、上昇しているのかもしれない。横に揺さぶられているのかもしれない。その世界は実感覚というものに乏しかった。
〈聴け、聖なる音色を。森厳たる歌を。そして識《し》るがよい。必定《ひつじょう》にして絶対たる神の力を〉

 そこで意識は閉ざされ、彼らは闇に

 闇に呑まれ

 まれ

 れ



 た。





 彼の前に、巨大な門が建っていた。
 実際に「前」にあったかどうかはわからない。だが、不吉に口を開けた門の上部に刻まれた碑文は、まるでその一字一字が頭の奥深くに吸いつけられるように、はっきりと読みとることができた。
『我を通るものは苦悩の都市《まち》に至る
 我を通るものは久遠《くおん》の苦患《くげん》に至る
 我を通るものは絶望の民の許に至る
 正義が崇高なる建造者を動かし
 我を神の権力と最高の叡智と
 そして至上の愛の象徴とした
 我より前に創造されたるものはなく
 我は永遠《とわ》に存在するであろう
 我を入る者は一切の希望を捨てよ』

 門を潜ると、そこには対岸が見えないほど大きな河が流れていた。決して抗えぬ力に従うまま河を渡り、さらに進むと目の前に異形の怪物が現れた。
〈あらゆる罪状を吐露し、ミノスの裁きを受けよ〉
 怪物の尾が伸びて、彼の身体に何重にも巻きつく。恐ろしい力で締め上げられ、全身の骨が砕けるのを感じた。激痛と恐怖に堪えかねて、彼は悲鳴を上げた。

 彼は風に流されていた。そう、まるであのルシフェルの戦いのように。黒い風は絶えず流れを変えて彼を弄ぶ。
〈浮名を流したる輩は止む事なき風に流され、身体を苛む〉
 そこに痛みはなかった。だが、まったく別の苦痛があった。永久に流され、翻弄されることへの不安、焦燥、苛立ち……それが堪えきれないほど大きく膨れあがったとき、彼は自らの存在と運命を嘆くことになる。

 その地には、冷たい霙《みぞれ》が降っていた。視線を感じて振り向くと、背後に巨大な獣が立ちはだかっている。
〈貪食《どんしょく》の罪人はケルベロスの餌食となる〉
 そいつは三つの頭と六つの目で彼を見下ろした。そして中央の一頭が大口を開けて彼の胴体に食いつくと、両端の二頭がそれぞれ頭と脚に噛みついた。牙が柔らかな腹や頸や腿を引き裂いて、大量の血が獣どもの喉を潤した。彼は喉を潰さんほどの絶叫を上げ、あえなく失神する。

〈吝嗇《りんしょく》と浪費は相対する罪なり。互いは互いを理解できぬまま、回り続ける〉
 彼は大きな袋を引きずりながら歩いていた。どこかへ通じているわけでもない、輪になった道をひたすら歩き続ける。袋の中身は知らないが、とても重かった。そのうちに別の誰かと正面からぶつかった。ふたりは同じようにして立ち止まると、それぞれくるりと向きを変えて今来た道を引き返していく。自分はあの者が到底理解できないし、向こうも自分のことは理解できない。だから道は譲れない。

〈憤怒を忘れぬ者は泥に塗《まみ》れ淵より泡を吐く〉
 足許に澱んだ沼が広がった。彼は沼に落ち、汚い水を呑みながら底へと沈んでいく。肺に水が侵入し、意識が混濁する。暗く深い、沼の底へと彼は堕ちていった。

〈邪教を渇仰《かつごう》せし者は永遠《とわ》の眠りを業火によって妨げられる〉
 彼は狭い石棺の底に横たわっていた。やっと安らかに眠れると安堵していたら、だんだんと棺の中が熱くなっていく。横の壁に触れると掌は一瞬で焦げてしまった。このままでは蒸し焼きにされてしまう。彼は慌てて起き上がり、内側から棺の蓋を押した。蓋はびくともしない。ならばと指を突き立て爪を食い込ませて、頭上を塞ぐ一枚岩を必死に退かそうとする。重い蓋が鈍い音を立てて動いた。しかしそれで喜んだのも束の間、蓋がずれて空いた隙間から怒濤のごとく炎が流れ込んできて、棺の中はあっという間に灼熱に満たされた。彼は自分の肉が焼け焦げ、熱に冒され骨まで溶けていくのを感じた。

〈暴力は並べて重き罪なり。自らが流した血に浸かり、その罪を贖《あがな》うがよい〉
 赤いどろどろとした水の中に、彼は落とされた。それは血だった。ぐつぐつと溶岩のように煮えたぎる血の池のただ中で、彼は藻掻いた。目の前に広がる、赤、赤、赤……それはもはや痛みを超越して、重く深い絶望ばかりが彼の意識を蝕んだ。

〈欺罔《ぎもう》者はそれぞれに相応しき責め苦を受ける〉
 そこではまるで彼をなぶり者にするかのように、次から次へと死よりも辛い苦痛が襲いかかった。怖ろしい悪魔に鞭で打たれ、汚物に漬けられ、火の雨を浴び、重荷を背負って引きずり回され、無数の毒蛇に噛まれ、剣で無残に斬りつけられる。彼はすっかり打ちひしがれ、自らが存在していることを激しく呪った。

 打ちひしがれた彼を、魂までも凍りつかせる吹雪が襲う。そこは世界の果て。世界の終わり。
〈叛逆は最大の罪なり。汝が堕ちる地は何処であるか。
 肉親を手にかけしカインによる第一円《カイーナ》か。
 売国奴アンテノルによる第二円《アンテノーラ》か。
 毒盛りの宴を開きしトロメオによる第三円《トロメア》か。
 偉大なる師に叛きしユダによる第四円《ジュデッカ》か〉
 何も見えず、何も聞こえない場所で、身動きもとれず強烈な冷気にさらされて、彼の意識は遠のいていく。だが、そこに見るも険悪な化物が現れると、彼の目に再び恐怖が宿った。三つの顔と六つの翼を持った化物は、手に持った大金槌を振りかざし、氷の塊と化した彼に容赦なく打ち込んだ。身体は粉々に砕かれ────。



 ガブリエルは、大宇宙の中心に立っていた。周囲には数多の星や銀河や星雲が、闇の孤独を紛らすように輝いている。崩壊紋章は彼の背後で、翡翠色の光を放出しながら浮かんでいる。それは宇宙に蔓延《はびこ》る奇妙な恒星のようでもあった。
 彼の周囲に、六人の人間が惨たらしい有様で倒れていた。息も絶え絶えに、あるいはほとんど息をしていない者さえある。顔は血に染まり、濁りきった瞳がうつろにどこかを見つめる。皮膚は爛《ただ》れ、あるいは凍傷に冒され、元の形状がわからないほど大きく膨れあがっていた。
 クロードの霞んだ両眼は、灰色の宇宙を映じていた。もはや指一本動かす力も残されていない。このまま、じっと最後の時を待つしかないのか。
 ──結局、何もできず、何も救うことはできなかった。
 仰向けになった彼の目尻から涙がこぼれ、蟀谷《こめかみ》を伝って流れていく。
 あの地獄は、ガブリエルの「絶望」そのものだったのかもしれない。愛する娘を失くしてから、彼はずっと心に地獄を抱いたまま生きてきたのだ。そう思うと、クロードは初めて敵に憐憫《れんびん》の情を抱いた。愛するものを失い、同様の立場に立たされることによって、初めて彼のことが理解できた。そう、すべてはこの絶望から始まったのだ。
 陽が沈み、暗い夜がやってくるように、灰色の宇宙は意識の底に沈み、闇に溶け込まんとしていた。残酷なほどゆっくりと、黒い幕が降ろされていく。
 彼は、静かに死にゆこうとしていた。

 ────…………?

 風が最後の灯《ともしび》を吹き消す寸前に、クロードは一条の光を見た。
 光は痛いほど瞼に突き刺さり、失いかけた意識がわずかながら押し戻される。広大な宇宙を漂う仄かな白い光。それは六つの塊に分かれて、それぞれ別の場所に散っていく。そのうちのひとつが、クロードの胸の上に降りてきた。
 光の塊は弾けるようにぱあっと飛散し、無数の煌めく粒となって降りそそいだ。その一粒一粒が、腕や脚や身体のあらゆる部位に触れると、そこから波紋のように光が広がり、クロードは、いや六人の人間は、月光のように皎々《こうこう》とした輝きに包まれた。重い火傷が、凍傷がみるみるうちに癒され、どれほど深い傷口であろうとも一瞬で塞がってしまった。流れ出た血さえも肌に吸収されるようにして消えていった。
「まだ、終わりじゃない。終わりにしてはいけない」
 彼らは立ち上がり、そして見た。彼方よりこちらへ降りてくるひときわ大きな光を。その中心に立つ、麗しき娘の姿を。
「…………!」
 クロードの瞳に訳もなく涙が溢れた。仲間たちも茫然と見蕩《みと》れている。それは紛れもなくレナだった。だが、それは彼らの知っている、いつも愛らしい笑顔を振りまいていた少女ではなかった。透き通った青い髪。光を受け輝いて見える白い肌。両の瞳は瑞々《みずみず》しく、微かに開いた唇は朝露に映える花のように艶やかで、かつ清澄さに満ちている。そう、それはまさに女神さながらの姿だった。
 神気を身に纏いながら地面ならぬ地面に降り立つと、レナは音では聞こえないことばを口走った。するとその横の宇宙が歪み、空間をこじ開けるようにして誰かが現れた。
「なんとか間に合ったようですね」
 汗を拭いながら現れたのは、ノエル。背後にはナールとミラージュの姿もあった。
「ッたく。何だよこの空間は。足元が落ち着かないったら」
 ミラージュは足の裏で見えない床を何度も叩いて、用心深く足場を確認している。
「みなさん、大丈夫ですか」
 ナールの呼びかけにクロードはひとつ頷き、そしてなによりも、レナの前に立った。
「レナ……」
「クロード」
 すっかり普通の少女に戻ったレナは、にっこりと笑った。
「なんだか、まだ信じられないけど……無事だったんだ」
「お母さんが、守ってくれたの」
 そう言って、胸許のペンダントを握りしめた。
「俺たちも驚いたよ。天井からいきなりレナが落ちてきたんだから」
 と、ミラージュ。他の者もその場に集まってきた。
「崩壊紋章の対策は、ちゃんとできたんですの?」
 セリーヌがナールに訊ねる。
「ええ。そちらは心配ありません。ですから、後は……」
 彼らの視線はガブリエルに向けられた。赤毛の男は首を落としたまま沈黙している。
「ガブリエルはリミッターを外した反動で、極端に力が落ちている」
 レナが神妙に言った。どうしてそんなことがわかるのか不思議だったが、それも彼女の秘めた能力によるものなのかもしれない。
「今は休息して力を回復させてるんだと思う。倒すのは今しかないわ」
「よし」
 クロードが仲間を見渡した。彼らも意を決してクロードを見返す。
「これで終わらせよう」
 壮大な星の海《スターオーシャン》を舞台にして、彼らは最後の敵に挑んだ。
 切り込み役のディアスが駆け出し、クロードが後に続く。それを察知したように、突然ガブリエルが顔を擡《もた》げ、眸が再び強い光を放った。
〈神罰を受けしもなお藻掻くか、罪人よ。ならば肉体のみならず魂をも砕き、未来永劫にも及ぶ重苦を与えてくれよう〉
 そうして周囲に強力な波動を繰り出す。赤紫に輝くそれは同心円状に広がり、クロードたちの攻撃を妨げる。セリーヌが離れた場所から呪紋を唱え、オペラが光弾を放った。人間たちはありとあらゆる攻撃を仕掛けるも、ガブリエルにはまるで通用しない。ディアスが相手の衝撃波の合間を縫って至近距離から放った鳳吼破も、片手一本でかき消されてしまった。一方、ガブリエルはほんの一言詠ずるだけでたちまち雷が落ち、炎の嵐が吹き荒れる。その恐るべき威力に星々は歪み、時空間が乱れて一帯に白いノイズが飛び交う。ボーマンがノエルがエルネストが持てる力のすべてを注いで反撃するが、いずれも空しく弾かれ、打ち消されて逆に手酷いしっぺ返しを見舞われてしまう。
 何度目かのガブリエルの衝撃波で突き飛ばされたクロードに、レナが駆け寄って治療を施す。立て続けに回復呪紋を唱えたせいで、彼女自身も辛そうに息を切らしていた。
「くそっ、攻撃が通じないんじゃ、どうしようもない」
 クロードは立ち上がって歯軋りした。人間たちは傷つきながらも執拗に攻撃を繰り返し、そして倒れてゆく。誰もかもが、限界ぎりぎりの線で戦っていた。
「みんな疲れてる。傷ついてる……。回復が追いつかない」
 レナも疲労を表情に滲ませながら、辺りを見回す。
「反物質が効かないんじゃ、もう打つ手はないよ」
 ミラージュも思案に暮れた。だが、その言葉でクロードはあることを思い出す。
「……いや、まだ手はある」
 そう言って、ミラージュの方を向いた。
「そうですよね。ミラージュさん」
「あんた、まさか……」
 ミラージュが眉根を寄せる。その反応でレナも感づいた。
 反物質の武器をクロードに渡したとき、製作者である彼女はあることを補足して伝えた。そう、あの剣には……。
「だめよ、クロード!」
 レナが声を張り上げた。あの剣には、刃を構成する反物質を全て解放させる装置が備わっているのだ。
「それだけは絶対にやってはいけないわ。どんな理由があっても、自分から命を捨てるなんて」
「まだ死ぬと決まったわけじゃないさ」
「でも……」
 レナは助け船を求めて視線を彷徨わせたが、ミラージュは腕を組んで素知らぬふりをしており、ナールはその隣で瞑目したきり口を閉ざしている。
「僕は死なないよ。必ず戻ってくる。だから……僕を信じて」
 クロードが言った。レナは凛然とした顔を見つめる。そして思った。
 ──ああ、やっぱりこのひとは勇者なんだ。
 物心ついたときから憧れていた光の勇者。アーリアではきっぱり否定したけれど、やっぱりクロードは私の大好きな、優しくて勇敢な勇者様だったんだ。
 レナは目を逸らすと、そっとペンダントを外し、背伸びをしてクロードの首にかけた。翡翠色の飾り石がクロードの胸許に落ちる。
「これは……?」
「お守りよ」
 レナはそれだけ言うと、あえて快活に笑ってみせた。
「今までだって、クロードは一度も約束を破ったことはないものね。ずっと一緒にいてくれたし、戻ってくるって言ったら必ず戻ってきてくれた。だから、私はクロードを信じる」
「……ありがとう」
 クロードは目を伏せる。そして、踵を返してガブリエルと向き合った。
「みんな、奴の動きを止めてくれ! ほんの一瞬でいい。僕が突撃する時間を作ってほしい」
 彼の言葉に、仲間たちは頼もしい笑顔で頷いた。彼らはクロードを信じた。クロードも、仲間を信じてその時を待った。
 人間たちは死力を尽くしてガブリエルを封じ込めにかかる。光弾を浴びせ、ありったけの火薬をぶちまけ、真空の刃を巻き起こしてどうにか相手の動きを止めようとする。全てはクロードの一撃のために。
 電光石火の早業でディアスがガブリエルの赤毛を数本切り落とす。そしてセリーヌを見た。長い詠唱を終えた彼女は燦然と杖を掲げる。そこに集中した凄まじい紋章力に、杖は耐えきれず呪紋の発動と同時に粉々になった。
「メテオスォーム!」
 宇宙空間の一角に大小さまざまな隕石群が出現し、まるで号令をかけたように一斉にガブリエルに降り注いだ。ガブリエルは障壁をつくって頭上に落ちる岩の雨を防いだが、その中でも最も大きい隕石が落ちたとき、僅かに身じろぎをして怯む様子を見せた。
 ──今だ!
 彼らはクロードを見た。クロードは既に駆け出していた。剣の柄についているスイッチに手をかけながら。ガブリエルはすかさず波動を放つ。ディアスが吹き飛ばされ、ボーマンたちも弾かれる。だが、クロードは耐えた。ジャケットが破れ、全身を切りつけられて血が噴き出そうとも足は止めることなく、ついに彼は力ずくで衝撃波を突き抜けた。
 紅の瞳を見開くガブリエルを前にして、クロードは剣を振り上げ、柄のスイッチを押しながら一気に振り下ろす。レナが両手を組んで目を瞑る。少女の祈りは強い想いとなってペンダントに伝わり、クロードの胸許で石が白熱する────。


 光が、爆発した。


 レナは顔を上げ、少しずつ目を開けてみた。
 そこにはクロードが放心したように立ちつくしていた。
 何も握られていない手を、腿《もも》の横に垂らして。
 彼の手前には、煙のように揺蕩《たゆた》う光が立ちこめている。

 と、星の輝きの合間から、別の光が降りてきた。
 光は清らかな娘の姿をしていた。
 娘は光の霧の上に舞い降りると、そこから光に向けてなにか囁きかける。
 それまで実体のなかった光がたちどころに凝縮され、初老の男の姿となった。
 男は娘の姿を認めると感極まったように涙を流し、娘にすがりついて泣きじゃくった。
 娘は慈しむような微笑を浮かべ、優しく抱きとめる。
 子供を慰撫する母親のような仕種で。
 ふたつの光は誘い合うようにして天空へと舞い上がり、宇宙の闇の中へと消えてゆく。
 どこまで行っても、決して離れることはなかった。

 クロードはそれを見届けると、振り返り、静かに歩き出した。
 レナのところには先に仲間たちが集まっていた。一同、笑顔でクロードを出迎える。
「ごめん、レナ。これ……」
 クロードが開口一番に言ったのは、ペンダントのことだった。彼が示した胸許に翡翠色の石は、ない。あの一撃のときに、跡形なく消滅してしまったのだ。
 レナはきょとんと目を丸くして、それから綻《ほころ》ぶように笑った。
「なに言ってるのよ」
「でも、大事なものだったんだろ」
「それは昔の話。今はもう必要ないわ。お母さんは、いつも私のそばにいるんだってわかったから」
 そう言うと、クロードに近づき、その胸に額を押しあてる。
「おかえり、クロード」
「……ただいま」
 小さな背中に手を当てて、クロードは言った。
 そのとき不意に、轟音を立てて宇宙が揺れた。
「なんだぁ!? 宇宙の終わりか……ってッ」
 ボーマンがたたらを踏みながら叫んで、舌を噛んだ。
「この宇宙空間はガブリエルが創ったまがい物だよ。実際にはネーデが揺れているのさ」
 と、ミラージュ。
「それって……まさか」
 彼らは翡翠色の球体を見た。先程まで激しく動き回っていたパネルは、不気味に静止していた。
「崩壊紋章が発動したみたいだね」
 この状況に似つかわしくないほど冷静に、ミラージュが言った。
「たぶん、ガブリエルの死と同時に作動するようになっていたんだろう」
「落ち着いてる場合じゃないでしょ!」
 オペラが声を張り上げた。
「大丈夫です。私たちにお任せください」
 ナールはそう言うと、ミラージュを伴って崩壊紋章の前まで歩いていく。
「どうしようってんだ……」
 皆が見守る中、ナールとミラージュは両手を翳して呪紋を唱え始める。
 しばらくすると、ふたりの手の中間あたりに一枚の光のパネルが生じた。崩壊紋章に組み込まれているものとまったく同じだ。パネルは徐に浮かび上がり、球体の然るべき位置に填ると、全体が激しく明滅しだした。地面の揺れはますます激しくなっていく。
「どうした。失敗したのか?」
「いえ、成功です」
 崩壊紋章の下で、ナールが言った。
「崩壊紋章はこのエナジーネーデを崩壊させ、そして消滅します。宇宙は救われました」
「なっ……どういうことですか?」
 クロードが息巻いた。ネーデが崩壊?
「一度発動しちまった崩壊紋章を止めるのは不可能なんだよ」
 未だ両手を翳したまま、ミラージュが言う。
「できるのは、崩壊の対象をずらすことだけだ。だから俺たちは、紋章の命令を『宇宙の崩壊』から『ネーデの崩壊』に書き換えた」
「そんな……!」
 彼らは驚愕した。言葉をなくして、唖然としたまま立ちつくす。
「崩壊紋章はネーデが生み出した負の遺産です。その責任は我々が負わねばならないのですよ」
「だからって……」
「気にすることはないよ。ネーデはとっくに寿命が来ていたんだ。それこそ十賢者が現れた時代に滅ぶべきだったのかもしれない。これまで進化も退化もなく、ダラダラと停滞の歳月を費やしてきたけれど、そろそろ終止符を打つときが来た。それだけのことだよ」
 その言葉に、彼らは何も言い返すことはできなかった。それは悠久を生きた者たちだけが共有することのできる、感情なのかもしれない。
「お約束した通り、エクスペルは宝珠の力で復活させます。そして、あなたがたも一緒にエクスペルにお送ります。崩壊紋章の余りあるエネルギーを利用すれば時空間転移は可能ですので」
 ナールがそう言ったとき、レナははっとした。
「ネーデのひとたちは? ナールさんやミラージュさんはどうするんですか?」
「俺たちはこの通り、手が離せないんでね」
 ナールとミラージュは、崩壊紋章の下で支えるようにして両手を広げている。球体はふたりを威嚇するかのように明滅を繰り返す。
「本来ならすぐに発動してしまうところを、なんとかこうして食い止めて時間を稼いでいるのです。さあ、もう時間がありません。ノエル博士」
「……はい」
 クロードたちは驚いてノエルを見た。彼は既に四つの宝珠を腕に抱えていた。
「僕が時空転移シールドを張ります」
 そう言って、宝珠を地面に置いていく。
「ノエルさん。まさか、こうなることを……」
「ええ。わかってました」
 ノエルは淡々と、だが力のこもった声色で語った。
「僕だけじゃない。ネーデ人はみんな、こうなることをわかっていた。知っていて、あえて君たちを送り出したんだ。だから君たちのしたことは背信じゃない。背信は、むしろ僕らの方だった。……今まで黙っていて、すみません」
「どうして、教えてくれなかったんですか」
 レナが憮然としたように訊いた。
「教えたら、あんたたちはどうしてた?」
 ミラージュが反問する。
「『宇宙をぶっ壊さないためにはネーデを潰すしかない』って、あらかじめ知ってたら、あんたたちはきっとためらっただろう。下手すりゃ十賢者への戦意すら喪失しかねない。だから言うのはやめておいたのさ。……くっ」
 ミラージュが苦しそうに顔を歪めた。崩壊紋章はもはや直視できないほど強烈な光を放出し、それと連動して振動はますます大きくなる。
「おしゃべりはここまでだ。こちらもぼちぼち限界なんでな。さァ、とっととやっちまいな!」
 彼女に急かされて、ノエルはすみやかに宝珠の前に立ち、両手で印を結んだ。四つの宝珠がひとりでに浮かび上がり、互いに距離を置くようにして散っていく。三つの宝珠は彼らを取り囲むように、そして残るひとつは頭上の一地点に固定された。そうして、それぞれ他の宝珠に向けて赤い光線を放つ。すべての宝珠が線で結ばれると、その場にクロードたちを閉じこめた正四面体ができあがった。
「その中にいれば、崩壊紋章のエネルギーを宝珠が吸収して、同時に復活するエクスペルに転送されるはずです」
 四面体の外側で、ノエルが言った。
「では、発動させます」
 ノエルが再び印を結んで唱える。宝珠が細かく振動しだす。それを確認すると印を解き、肩の力を抜いて大きく息をついた。そして、クロードの顔を、レナの顔を、仲間たちの顔を見渡すと、口許を緩めた。
「お別れです」
「ノエルさん……」
 瞠然《どうぜん》として、クロードが呟いた。
「みなさん、お元気で」
「じゃあな。あんたたちに会えて、俺も楽しかったよ」
 崩壊紋章の光に半ば呑まれながら、ナールとミラージュも言った。ふたりは微笑を浮かべたまま、球体を支えていた腕を降ろす。空間全体が光に包まれ、ついに発動が開始する。
 その間際、四面体の内側からさっと腕が伸びた。腕は外側に立っていたノエルの手首を掴むと、そのまま彼を四面体の中へと引きずりこむ。
「な、なにを!?」
 腕の主はクロードだった。動転するノエルに、悪戯っぽく笑いかける。
「放してください。僕は……」
「ノエルさんは」
 クロードは言った。
「僕らの仲間です」



 ネーデは消滅した。

 三十七億という歳月と、その間に生みだされた幾多の負の遺産とともに。



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【ひとくち解説】
 ラストバトルです。ゲームのサウンドテストでガブ戦の曲をひたすら流しながら書いてたなァ。
 『神曲』のくだりは、聖闘士星矢のハーデス編が非常に参考になりました(笑)。いや、もちろん自分でも読んだけど。
 この連載も来週で完結です。そして今日はSO4の発売日。微妙に区切りが良い……のかな。
posted by むささび at 18:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説SO2
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