2009年01月08日

小説 STAR OCEAN 2 〜 ネーデ編 第三章(3)

   3 静かな選択 〜ミーネ洞窟〜

 カーテンの隙間から洩れるやわらかな日射しが、閉ざされた瞼《まぶた》に突き刺さる。瞼を通して橙色の光が目の前いっぱいに広がる。安らかな眠りを邪魔されて、このときばかりは太陽を憎らしく思いながら、彼女はタオルケットに絡みついていた左手を引っこ抜いて、掌で顔を覆った。
 だが、いちど目覚めてしまうと、再び眠りに就くことはなかなかできなかった。仕方なく、右手を伸ばして枕のすぐ横に垂れ下がっていた紐を引っ張る。カーテンがさっと両側に開かれ、太陽の光が彼女の体に容赦なく降りそそいだ。こうでもしないと彼女は一生ベッドにかじりついていそうなのだ。
 そうして、彼女はようやく起きた。そのへんの空気を吸いつくしてしまいそうなほど大きな欠伸《あくび》をし、首の後ろからシャツの下に腕を突っこみ、背中をぼりぼり掻きながら台所へと向かう。艶のない青い髪はぼさぼさに膨れ上がり、顔色も少しやつれたような土気色をしていた。もしこの場に、作法というものを多少は弁《わきま》えた男がいたならば、思わず目を覆いたくなるほどの有様だった。
 床に散らばっていたがらくたを蹴飛ばしながら台所に辿り着くと、蛇口をひねりコップに水を注いで、一気に飲み干した。空のコップを置くと続けて顔を洗い、壁に掛けてあったタオルで拭う。それが終わると寝室に戻り、椅子の背もたれにかかっていた上着を頭からかぶった。彼女はそれまで、薄い袖なしのシャツと下着しか身につけていなかったのだ。
 ベルトを締め、着替えが終わると、髪を項《うなじ》のあたりで束ねて、机に置いてあった銀の髪留めで留めた。するとどうだろう。それまでしどけない女性の身なりだったのが、端正な顔立ちの青年へと変貌したのだ。眉は凛々しくつり上がり、瞳には刃物のような鋭さと力強さがこもっている。胸のふくらみはベージュのスカーフで隠され、小柄ながらがっしりとした体格はおとぎ話のドワーフを連想させた。
 彼、いや彼女は、机の上にあった煙草の箱から一本取りだして口に銜《くわ》えると、金のライターで火をつけた。窓の外の景色を眺めながら、煙草の煙をめいっぱい吸いこみ、肺の隅々まで染みこませてから、吐き出した。体に悪かろうが早死にしようが、この一服のひとときだけはなにがあっても根絶されるべきではないのだ、と彼女は思った。外は朗らかで明るく、道を挟んで向かいの建物の屋根では、猫が丸まって気持ちよさそうにうたた寝をしていた。かぁん、かぁんと金属の鎚《つち》の音が遠くから小波《さざなみ》のように響いてくる。裏路地の職工が気まぐれに武器の製作でも始めたのだろう。
 短くなった煙草を灰皿の底に押しつけてもみ消すと、彼女は部屋を出て玄関に向かった。朝食は隣の喫茶店で済ますのが日課なのだ。セットの軽食をAセットにしようかBセットにしようか考えながら、玄関のドアを開けた。
 太陽の光をじかに浴びてみると、外は汗ばむほどに暖かかった。目を細めて青い空を振り仰ぎ、その澄みきった鮮やかな色を目に焼きつけておいてから、彼女は目と鼻の先の店へと歩いていく。そのとき、道のずっと先で、見覚えのある赤いコートに禿げ上がった額の男が、妙な恰好をした集団をぞろぞろ引き連れて裏路地のほうへと通りがかっていたのだが、それらが彼女の視線に入ることはなかった。
 彼女の朝の、なんでもない日常だった。


 アームロックに戻ってきた一行は、再びナールの先導のもと、狭苦しい路地を抜けた通りを歩いていた。その道は街の中でもわりと明るく、ぽかぽかと春のような陽気に満ちていた。
「これからどこへ行くんですか?」
 クロードが訊くと、ナールは懐にしまってあるデータの記録されたカードに、服の上から触れる。
「このデータの解析を、専門家に依頼するのですよ」
「この街にいるんですか?」
「ええ。多少偏屈で頑迷のきらいはありますが、腕は確かです」
 この口ぶりだと、ナールはその人間のことをよく知っているようだ。
「それで、そのひとに頼めば、十賢者を倒せる武器ができるんですね」
「いえ。それが、このデータが本当に『武器』なのかは、まだ確認が取れていないのです。何かの設計図であることは確かなのですが、詳しいことは博士に解析してもらうまではわかりません」
 ナールは言いながら日溜まりの石畳を歩いていく。呑気な顔をした三毛猫が道の脇で、花に群がる蝶を相手にじゃれあっている。ふと裏路地のほうを振り向くと、そこだけ雨雲がかかったように、もうもうと灰色の煙が舞い上がっていた。
 やがて、ナールは一軒の家の前で立ち止まった。
「ここです」
 それは、この街の中でも宿屋に次いで大きな建物だった。ちょっとした工場くらいの規模はあるかもしれない。立派な煉瓦の煙突。洒落た柑子《こうじ》色の屋根。分厚い石造りのせいだろうか、見た目以上に重々しい感じがする。
 入り口は壁に沿って続く石段を登った先にあった。なんとなく気になったので目を逸らして隣を見ると、そこには真っ白に塗りたくられた木造の家が建っていた。入り口に縞模様の庇《ひさし》がつけられ、『やまとや』という看板が手前に立ててある。どうやら喫茶店らしい。窓にはフリルのついたカーテンが飾られ、店のまわりにはよくもこれだけ育てたものだと感心するくらいのパンジーが色とりどりに咲き乱れている。こうも趣味の違う建物が隣同士に並ばれると、なんだか自分の中にあった協調性という概念が、音をたてて崩れていくような気がした。
 ナールは石段を登り、扉についていたベルを鳴らした。そして、返事を待つことなく中へ入っていく。クロードたちも慌てて入り口を潜る。
 中は外観から想像していたよりもずっと狭く、雑然としていた。ナールは玄関と続きになっている部屋へと入っていくところだった。
 そこは居間のようだったが、混沌をかき混ぜてぶちまけたように散らかっていた。埃のかぶった机。煤けて黒くなったまま放置されている暖炉。壁には何に使うのかよくわからない金属の棒やら刃物が並べられ、床にはがらくたとしか言いようのない塊が、足の踏み場もないほど転がっている。そのがらくたの中心、革張りのソファに、この家の主は横になっていた。
 ナールはそのへんのがらくたをお構いなしに蹴飛ばしつつソファの前まで行き、扉の前で立ちつくすクロードたちを振り返った。
「紹介します。こちらがミラージュ博士」
「紹介なんていいよ」
 寝ころんだまま言ってから、ミラージュは身体を起こしてナールを気怠そうな表情で見た。
「市長。あんたさァ、ちっとは礼儀ってものをわきまえなさいよ。いきなり人の家に押しかけてきて、しかもこんなにゾロゾロと金魚のフンみたいなのを連れて」
「金魚のフン……」
「事前に連絡は入れておいたはずだが」
 ナールがおぼつかなさそうに言うと、ミラージュはわかってる、と何度も頷いた。
「そんなこたァ、わかってる。俺だってちゃんと了解したさ。けど、俺が言いたいのはそういうことじゃなくて、こっちが返事もしないのに勝手に入ってきて、遠慮のかけらもなく押し寄せてきた、あんたの了簡を疑ってるんだ」
「わかった。急いでいたんだ。すまなかった」
 ナールは息巻くミラージュを押しとどめて、うるさそうに言った。どうやらこのふたり、あまり仲がいいというわけではなさそうだ。
「……それで、解析してほしいっていうデータは?」
 こちらにチラリと視線を向けてから、またナールに向き直った。市長は懐からカードを取り出して、ミラージュに手渡した。
「ふーん……」
 ミラージュはそのつるつるに磨かれたカードをつまみ上げて、疑り深く骨董品を鑑定するようにじろじろと眺めた。
「まァいいや。ついて来な」
 不意にそう言って立ち上がると、奥の扉へさっさと歩いていってしまった。飛び石づたいに川でも横断するように、足許のがらくたを身軽に飛び越えて。
「さあ。我々も奥の部屋に」
 ナールは相変わらず無遠慮にがらくたを蹴散らしながら、扉へと向かった。彼が作ってくれた道のおかげで、後に続くクロードたちが足の踏み場に困ることはなかったが。
 奥は研究室になっていた。さっきまでいた居間に比べると、ざっと四倍くらいの広さはある。敷地の半分は巨大な装置群で埋めつくされていた。中央に大きな画面と操作盤。向かって左側には透明な壁で仕切られたケージのような小部屋があり、右側には光沢を放つ金属で造られた炉のようなものも設置されていた。
 ミラージュは操作盤の前に立っていた。カードを手前の差込口《スロット》に挿入し、操作盤を叩く。すると画面に何かの形が浮かび上がった。細身の剣と、黒い玉。
「ほう。こりゃすごい。かなり高度な反物質兵器だな」
「反物質兵器?」
 クロードが怪訝そうに繰り返した。
「どれがですか?」
「画面に映ってるだろ。それだよ」
 黒い画面に浮かび上がる剣を見て、クロードは笑っていいのかどうしようかと複雑に頬をひきつらせた。
「剣、ですよね。これ……」
「剣だね」
 ミラージュはまるで相手にせず、一心不乱に操作盤を叩いている。
「あの、これが、反物質兵器なんですか?」
「あ〜あ〜。ちょっと待ってな。説明は後でまとめてするから」
 そうやって軽くあしらわれてしまったので、クロードも仕方なく黙って操作を見守るしかなかった。
 画面が猫の目のように次々と切り替わる。剣が横から、下から、さまざまな角度で映し出される。それの説明らしき文字も画面いっぱいにびっしり表示されていたが、文字が細かいのと内容がまるで理解できないのとで、文字というより何かの模様のように見えた。
「さて、何が聞きたい?」
 一通り操作が終わり、ミラージュはこちらに向き直って、肩をすくめた。
「反物質をあんな剣の形にできるものなんですか? 空間上に安定させることでさえ難しいというのに」
「確かにね。陽電子や反陽子などの反粒子は実空間上での存在は非常に短い時間に限られている。けれど、ここではそれを可能にしている。どうやるかわかるかい?」
 首を横に振ると、ミラージュはなぜか嬉しそうにニッと笑った。
「磁場を入れ子にして、それぞれ反粒子、反原子、反物質をくるむんだ。こうすることで、物質とほとんど変わることのない状態で空間に存在することができる」
「ち、ちょっと待って。待ってくださいな」
 と、慌ててセリーヌが口を挟んだ。
「もう少し、わたくしたちにもわかるように説明できないんですの?」
「そうだなァ。じゃ、長くなるけどはじめから説明してやるか」
 ミラージュはひとつ息をついてから、話を始めた。
「この世界に存在する全てのものは、『原子』っていうごくごく小さな粒でできている。この装置もこの家も、俺もあんたたちも花や木や動物や金魚のフンでさえも、どんなものだって突き詰めていけば、最後は原子になるんだ。『物質』ってのは、言ってしまえば『原子の集合体』ってことだね。
 んで、原子がこの世界を構成する最小単位かっていうと、そういうわけでもない。原子もやっぱり、もっとちっこい粒によって構成されてるんだ。それを一般に『粒子』と呼んでいる。電子や陽子、中性子って呼ばれてるものが主な粒子だ。ただ、陽子と中性子はさらに三つのクォークから成り立ってるんだが、そこまで話をするとややこしくなるからやめておく。とにかく、物質─原子─粒子の順で構成単位が小さくなっていくということだけわかればいい。ここまではいいな?」
 レナとセリーヌが同時に頷いた。
「さて、面白いことに、この宇宙が始まったときには、粒子の他に『反粒子』というものが生まれたとされてる。反粒子はそれに対応する粒子と基本的性質は同じで、電気的な性質……これを『電荷』っていうんだが……これだけが反対なんだ。たとえば、『電子』っていう粒子がある。これに対応するのが『陽電子』だ。電子と陽電子は電荷が逆である以外は全く同じ性質を持つ。同様にして陽子と反陽子、中間子と反中間子なんてのもある。すべての粒子には対応する反粒子があるんだ。ところが、この世界は何もかもが粒子で構成され、反粒子は存在しない。なぜだかわかるかい?」
 今度はふたりとも首を横に振った。
「粒子と反粒子は、互いにぶつかると対消滅という現象が起こる。光エネルギーとなって無くなってしまうんだ。こいつのおかげで、反粒子はこの世界から完全に姿を消してしまった。同じように消滅したのに粒子だけが残った理由については、粒子の数が反粒子より多かったからだとかCP対称性の破れが原因だとか言われてるが、ここでは関係ないから省略していいな。ともかく、反粒子はこの世界から消えた。だが、粒子と反粒子が衝突するときに生じるエネルギーは莫大なものだ。核兵器に飽き足らなくなった傲慢な人間は次に、反粒子を人工的に作り、粒子と衝突させて取り出したエネルギーを兵器に活用することを考えだした。これがいわゆる『反物質兵器』の原理だ」
「そんなに凄いエネルギーですの? 紋章術よりも?」
「紋章術では原則として自然現象を前提としたエネルギーしか生み出せない。炎とか雷とか、そういうやつだな。まァ崩壊紋章みたく、紋章力の媒体であるクォドラティック・スフィアと連動して無尽蔵にエネルギーを増幅させるようなモノも時として生まれたりするが、それはあくまで例外中の例外。異種と考えてもいい。そういうのを除けば、粒子と反粒子の対消滅がもたらすエネルギーは、紋章力の比じゃない。……そうだな。たとえば」
 と、ミラージュは足許に転がっていた、小指の先ほどの小さなねじをふたつ拾い上げ、それぞれ右手と左手につまんで、皆に示した。
「こっちが物質。こっちが反物質だとしよう。……ああ、『反物質』ってのはもちろん、反粒子で構成された反原子の集合体のことだ。で、こんなちっこいもの同士でも、こうやって(と、ねじ山の部分をかち合わせて)ぶつかりあっただけで、二億リットルもの水を一瞬にして沸騰させることができるぐらいのエネルギーを取り出すことができるんだ。これが、もっと大きいもの同士の反応だとどうなるか、考えたくもないだろ?」
 レナは神妙に頷いた。そういえばフィーナルの十賢者たちも、陽電子とか反陽子とか言っていた。画面いっぱいに吹き荒れた光の奔流。あれが反物質兵器の威力なのだと考えると、その恐ろしさはよく実感できた。
 フィーナルでのことを回顧しているうちに、ふと、光に呑まれて粉々になってゆく乗り物とクロードの父親のことを思い出してしまった。横目でそっとクロードの顔を盗み見する。彼は今、いったいどういう気持ちでこの話を聞いているのだろう。
「反物質兵器の大まかな原理については理解できたね。これでやっと、最初の話に戻すことができるんだが……要するに、この剣の刃は反物質でできている。反物質を空間に安定させるのは非常に難しいんだが、さっき言ったように、ここでは磁場という特殊な力でもってそれを解決している。反物質である刃が物質に触れたとき、そこに生じるエネルギーが相手を砕く力となる。いくら十賢者の防御が強固だとしても、これには耐えきれないだろう」
「でも、反物質は物質に触れたら消えるんだろう? そんなんだったら、一回敵を斬っただけで刃がなくなっちまうんじゃないのか?」
「それに、そんな凄いエネルギーだったら、剣を持っているほうもただで済むとは思えませんけど」
「いーい質問だねェ、あんたたち。でも順番にしてな」
 ボーマンとセリーヌの問いかけに、ミラージュはますます嬉しそうに口許を綻ばせる。まさに生徒の質問に答える教師といった感じだ。
「まず対消滅についてだが、実はこれにはからくりがある。物質と反物質が反応して光エネルギーとなった後、今度は『消滅の逆反応』という現象が起きる。つまり、できたばかりの光エネルギーはすぐにまた物質と反物質の対に変換されるんだ。この剣はその反物質だけを吸収して元の形状に修復する仕組みが施されている。それは本当に短い時間だから、刃が壊れて元に戻る推移を肉眼で観察するのは不可能だけどね。
 それから剣から生じるエネルギーだけど、これも磁場によって、持ち主に危険がない程度に抑制されている。ついでに言うなら、ふだんは磁場によってコーティングされてるから、刃の腹に触るぐらいはまったく問題ない。ただし物打(刃の両端の鋭い部分)は駄目だ。そこに物質が触れるとそれがスイッチとなって、ごく少量の反粒子が放出されるようになってるからね。さっきも言ったけど、この反応では少量でも膨大なエネルギーが発生する。刃の先のほんのちょっとの粒子でも、敵を砕くには充分なのさ」
 ミラージュの長々とした解説が終わると、部屋の中は急に静かになった。唸るような装置の音ばかりが足許から響いてくる。
「それで、今からすぐ製作に取りかかってくれるんだな?」
 ナールが言うと、ミラージュはあっさりと首を横に振った。
「いや、無理だね」
「なんだと?」
 と、眉根を寄せるナール。
「話が違うじゃないか」
「材料が足りないんだよ」
 そう言って、ミラージュは画面を振り返る。
「これにはレアメタルが必要だね。反物質を空間に安定させる磁場を持っているのは、あの金属だけだ」
「レアメタルといえば……バーク人の構成物質か」
「そう。しかもこれは高純度のレアメタルを必要としている。最深部にいる『長老』でも倒さないことには、手に入らないね」
「なんだかよくわかんないけど」
 と、オペラ。
「材料が足んないのなら、あたしたちが採ってくるわよ。こういうのは何度も経験してるから」
「いえ。それが、そう簡単なことではないのです」
 ナールが複雑な表情をみせる。
「この街から西の小島に、ミーネ洞窟という場所があります。そこには惑星バークから移植された鉱床があり、バーク人という鉱物人種が棲んでいます」
「鉱物人種?」
「早い話が、バーク人自体がレアメタルだってことさ。より強力なバーク人ほど、純度の高いレアメタルなんだ。……つまり」
「そのバーク人ってのを倒さないことには、レアメタルも手に入らないということか」
 エルネストが総括した。同時にレナの表情が険しくなる。
「その通り。ただし、奴らも命がかかってるとあらば、必死に抵抗してくるだろう。しかもここで必要としているのは『長老』クラスのバーク人《レアメタル》だ。下手すりゃ十賢者より強いかもよ」
「でも、それがないと武器は作れないんでしょう。だったら……」
「私たちの都合でそのひとたちを殺す権利なんて、あるんですか」
 クロードの言葉を押しとどめて、レナが語気強く言った。その場が、急にしんと静まりかえった。
 ミラージュはしばらく無表情でレナの顔を眺めた。そして、ゆっくりと口を開く。
「お嬢さん、若いね。まァ当然か」
 揶揄するような言葉にレナはますます視線を厳しくする。ほとんど怒っているようだった。
「確かにね、あんたの言うことは正しいよ。バーク人には権利というものが与えられてない。彼らはただ、採掘されるだけなんだ。そんなのは不公平だね。でも、だったらあんたはどうするつもりなんだい? 武器がなけりゃ、十賢者とだってまともに戦えないんだろう。バーク人が可哀相だからって、あんたの故郷も全宇宙も、すべて捨ててしまうのかい? バーク人をとるのか、故郷をとるのか、あんたはどっちを選ぶんだい?」
「そんな、残酷な選択……できません」
「するんだよ。しなきゃなんないんだ。ヒトってのはね、選択をすることによって前に進んでいく生き物なんだよ。ときには静かに。ときには残酷にね。それができないんなら、人間なんてやめちまいな」
「ミラージュ!」
 ナールが怒鳴った。クロードたちは目を丸くして彼を見た。ナールの怒った姿を見るのは、これが初めてのことだった。
「あ……ん? 言いすぎたのか。……悪かったね」
 ミラージュは眉間に皺をつくり、首を傾げて頭を掻いた。レナは下を向いたまま、肩を震わせている。
「気にすることはありませんよ、レナさん。あなたの優しさは我々にはない、大きな力です。それに従って行動することは、決して間違いではありません。……しかし、どうかここは堪えてほしいのです。人間には、誤った行為とわかっていても、それを為さずには乗り越えられない場合もあります。あなたのエクスペルのためにも、今だけはその優しさを抑えていてほしいのです」
「……はい」
 レナは蚊の鳴くような声で、返事をした。
「ミーネ洞窟にはトランスポートがない。一度セントラルシティに戻って、サイナードで行くことだね。方角は、ちょうど真東だ」
 ミラージュは視線をそらすように画面に目を向けながら、言った。
「それじゃあ、行こうか」
 と、クロードが仲間を促して部屋を出ていこうとした、そのとき。
「あ、忘れてた」
 背後でミラージュが声を上げた。
「ちょっと聞くけど、この中で剣を扱えるのは、どいつだい?」
「え? それは、僕と……」
 言いながら、クロードはディアスに目を向ける。ミラージュはそれで諒解したようだ。
「ふたりか。それじゃ、あんたたちは別行動だ」
「どういうことですか?」
 クロードが訊くと、ミラージュは画面に映っている剣を指さして。
「この『剣』を、どちらが使うかを決めなきゃならない。時間的にも技術的にも、作れるのは一本が限度だからね。これから俺の前でふたりに戦ってもらって、その結果をもとに俺が判断する。この『剣』に相応しい人間を、ね」
 クロードとディアスは複雑そうに顔を見合わせた。レナもふたりを交互に見て、胸の前で左手をギュッと握りしめた。
「でも、僕らが抜けたら、ミーネ洞窟のほうが……」
「心配いらねぇよ」
 ボーマンが言った。
「鉱石を採ってくるくらい、俺たちだけで充分さ」
「バーク人ってのがいくら強いって言っても、十賢者とやり合うわけじゃないんだからね。大丈夫よ」
「わたくしの呪紋があれば、どんな敵だってイチコロですわ」
 オペラが、セリーヌが言い募る。ノエルとエルネストも無言のまま、心配ないと目配せした。
「みんな……約束してくれるかい」
 クロードが、仲間たちを見渡してから、言った。
「必ず、戻ってきてくれるって」
「当ったり前よ。俺はこんな場所でくたばるわけにはいかねぇんだ。ニーネの顔をもう一度見るまでは、死んでたまるか」
 涼しい顔で、ボーマンが言う。クロードの表情から微笑が洩れた。
「それじゃ」
 と、ミラージュ。
「俺たちはどこか広い場所に移動しよう。こんな街中でチャンバラやられても迷惑だからな。……市長。どこかいい場所ない?」
「ファンシティの闘技場を使えばいい。今日は休園日のはずだから、誰も使ってはいまい」
「いいね。上等だよ」
 ミラージュはひゅうっ、と掠れるような口笛を鳴らした。
「あの」
 そのとき、レナがナールに申し出た。
「私もクロードたちのほうにいて、いいですか?」
 クロードとディアスが再び剣を交えるのだ。この場には自分がいなくてはいけない。レナの中の漠然とした気持ちは、決意へと変わっていた。
 それに、彼女の中ではまだバーク人のことが割り切れないでいた。洞窟に同行したら、またみんなの邪魔をしてしまうかもしれない。ノースシティでのサイナードのときのように。
 ナールは少しの間考えていたが、やがて静かに頷く。
「そうですね。彼らが怪我でもしたときに、治療のできるあなたがいてくれると助かります」
「ありがとうございます」
 レナはナールに礼を言ってから、仲間たちには謝った。彼らも快く承諾した。
「いいってことよ。色々あった後だしな。ゆっくり休んでくれや」
「サイナードのことは心配ありませんよ。僕にもずいぶん慣れてきていますから」
「あいつらには監視役も必要だろうからな。レナが適任だろう」
「剣を持つと見境なくなっちゃうからねぇ、ふたりとも。レナ、危ないと思ったらあなたが止めるのよ」
 それぞれに言葉を残して、五人はミラージュの家を出ていった。
「さて、俺たちも行くとするか」
 ミラージュが、やけに楽しそうに言った。まるで剣技の試合でも観に行くみたいに。ナールがひそかに、けれど深々と、嘆息した。


 スタンドは、音という音を吸いつくしてしまったかのように、静まりかえっていた。観衆のいない闘技場。その中央のフィールドに、ふたりの剣士が対峙している。
「準備はいいね?」
 ミラージュの声が余韻を残しながら闘技場の隅々まで響き渡る。ナールとレナも、スタンドの最前列でふたりを見守っている。
 過去《むかし》に逆戻りしてしまったようだった。ほんの数ヶ月前、ふたりは今と同じように、闘技場の中央で向きあっていた。圧倒するディアスに、クロードは傷つきながらも何度も立ち上がる。腹を裂かれ、服が血で染まっても、彼は歯を食いしばって剣を構えた。あのときの表情を、レナは今でもはっきりと思い描くことができる。
 まさか、またふたりが剣を交えることになろうとは。
 レナは不安だった。けれど、あのときに比べれば、ずいぶん落ち着いているのだろうと思う。その証拠に、ふとしたことから彼女の脳裏には、これまでの旅のことが次々と浮かび上がってきた。クロードと出会ったこと。大切な仲間と出会ったこと。みんなで喜んだり、ときに怒ったり、悲しんだりもした。楽しいことも、危険な目に遭ったことも数知れず。いろいろな想い出が、まるで子供の頃に遊んだおもちゃの箱をひっくり返したように、彼女のこころに流れこんでくる。
「それじゃ、始めてくれ」
 ミラージュが言うと、クロードは剣を抜いた。ディアスはいつものように無防備に立ちつくしたまま。そして、同時に斬りかかった。


「そうですわね。最初に会ったときは、間の抜けたというか、やけに間延びした子だと思いましたわ。田舎育ちだったせいかしらね」
 青黒い光を放つ洞窟の中は、数えきれないほどの鉱石人間で埋めつくされていた。セリーヌはサンダーストームを放って群れを分断する。
「頼りないクロードと一緒で、それはそれは危なっかしい二人組でしたわね。とてもじゃないけど、あの子たちだけで旅なんて続けさせられないから、わたくしも同行することになったんですけど……でも、そのうちに、だんだんとわかってきましたわ。あの子は、ほんとうに優しくて、それでいて芯の強い子だってことが。クリスとわたくしを引き逢わせてくれたり、諦めかけたわたくしを励ましてくれたり……ああ、そう、あのときのことは本気で感謝してますわ。最高のひとときを、ありがとうね」
 イラプションが鉱石男たちを吹き上げ、焼きつくした。空中で砕けて炭となった鉱物の塊が不吉な雹《ひょう》のように降り注ぐ。

「初対面は山岳宮殿、だったわね。あのときはエルを探すのに必死だったし、地球人のクロードがいたことにびっくりしてたから、あんまりあの子のことは気にしてなかったけど」
 オペラは立て続けにランチャーから光弾を放つ。動きの鈍い鉱石男は光の銃弾に腕を砕かれ、腹を貫かれ、瓦礫のように床に崩れ落ちる。
「でも、なんか視線が痛いのよね。クロードと話してると、鋭い目つきでこっちを睨んでるのよ。まあ、そのへんは女の勘ってやつで、すぐにこの子がクロードのことを好きなんだなってわかったけど。なのに、旅に加わってそれとなく観察してみたら、クロードはクロードでニブちんだし、レナも自分がクロードを好きだってことに気づいてなかったみたいで、見てるこっちがイライラするぐらいだったけどね。……ま、今はたぶん、ふたりともわかりあってるんだと思う。クロードも大事にしてあげなきゃダメね。あんないい子、滅多にいないんだから」
 集団で押し寄せてきた鉱石男たちを見ると、素早くカートリッジを取り替え、銃口をそちらに向けた。すさまじい冷気が噴き出し、鉱石男をあっという間に氷の彫像へと変えていく。

「俺が最初に会ったのは、図書館の中だったか。大学を案内して、講義を受けて……。どこか他の女の子と違って、一歩か二歩ぐらいズレてるような子だったが、一途に大学に憧れる姿は、この俺から見ても可愛かったな」
 ボーマンは襲いかかってくる鉱石男を、闘気を込めた拳で殴りつけた。腹をえぐられた鉱石男は前のめりに倒れる。
「ああ、そうだな。あのときは冗談のつもりだったけど、今思うと本気で惚れたんだろうな。なんつうか……あいつ、昔のニーネにそっくりだったんだよ。青い髪も、仕草や笑い方も、少しズレたような性格も、俺の記憶にあった、かつてのニーネそのものだったんだ。だから、どうにもほっとけなくてね。あのクロードの若造ごときに任せてらんねぇから、あいつらの旅につき合うことになっちまったんだが……。はは。ニーネにこんなこと言ったら、妬かれるかな。……いや。たぶん『あなたらしい』って、笑うだけだろうな」
 ひっきりなしにやって来る鉱石男に、得意の丸薬を手当たり次第に投げつける。頭が吹き飛び、脚がもげて頽れる。

「特殊な能力というのは、ある種の『業』のようなものなのかもしれないな」
 エルネストが鞭を振り回し、勢いをつけて地面に叩きつけると、砂塵を巻き上げて竜巻が発生した。竜巻はみるみるうちに膨れ上がり、進路にいた鉱石男たちをことごとく吹き飛ばす。
「俺も彼女の回復呪紋に助けられたわけだが……あの治癒の能力は、時として自らを危険に晒す恐れもある。俺はラクールの前線基地でそのことを教えた。あの子は一応はわかってくれたみたいだが、どこか納得しきれていないようでもあった。理屈だけでは自分の気持ちを割り切ることができなかったのかもしれないな。恐らく、あの能力に目覚めてから彼女は、ずっと自分の特殊な力と向き合い、戦ってきたんだろう。誰かを救う力。それは同時に、誰かを捨てる力でもある。救うことのできなかった者を目の当たりにするたびに、あの子は自分の能力を呪ったことだろう。この『業』は、まだ若い女性の身にはいささか荷が重すぎる。俺たちが支えてやる必要がある」
 鞭が生き物のように鋭く伸びる。先端から電撃が迸り、いくつかに分岐しながら相手に向かっていく。電撃に触れた鉱石男は躯の中心から爆発するように砕け散った。

「初めて顔をよく見たときに、不思議な感じのする子だと思ったんです」
 ノエルは腕をつきだしてソニックセイバーを放つ。真空の刃が鉱石男の腹を突き抜ける。まっぷたつに分断された鉱石の塊が音をたてて床に落ちた。
「どこか僕たちと違う雰囲気があったんです。僕たちネーデ人にはない、それとも、ネーデ人が失った何かを持っているような……その答えは、紅水晶の洞窟で見つかりましたけど。戦うことでしか従わせる術のないサイナードを、包みこむような優しさで従わせてしまった。いや、この場合『従わせる』って言葉は適当じゃないかもしれないね。彼女には、他の人間や動物たちの痛みや悲しみや苦しみを共有して、分かちあう力がある。もともとこれは誰にだってある力なんです。ネーデ人は永い進化の果てにその力を永遠に失ってしまった。でも、彼女はエクスペルで過ごすことによって、その力をより強いかたちで呼び覚ますことができたんだと思います。それが、市長の言っていた『我々にない優しさ』です。市長も気づいたんでしょう。ネーデ人の進化における最大の過ちは、この『優しさ』の欠落だということが」
 狭い通路にひしめく鉱石男に向かって、ノエルはフェーンを唱えた。高熱の突風が岩石の肌を灼き、ひび割れ、無数の砂粒となって通路の奥に吹き飛んでいった。

 通路を塞いでいた鉱石男を全て片付けると、奥の部屋がよく見えるようになった。天井の岩盤の隙間から光が降り注ぎ、鉱物の混じった岩を神秘的に輝かせる。
「ここが最深部のようだな」
 エルネストが部屋に踏み入る。と、奥の壁際の岩が、突如としてうつろな両眼を開いた。ぎろりと侵入者を睨みつけ、威嚇する。
「なっ……!」
「まさか……こいつが?」


 剣と剣が交わると閃光が迸った。突き飛ばされたクロードは膝をつき、ディアスは背後によろめいた。両者ともに激しく息をきらせ、身体には無数の切り傷が生じていた。剣はもはやろくに人など斬ることができないほど刃毀《はこぼ》れしている。しかも、それはただの剣ではなかった。ミラージュが自分の傑作だといって手渡した、ネーデにおいて最強の名を冠せられた剣なのだ。それが、この激しい戦いのうちにみるみる破損し、壊れていく。だがミラージュはむしろ、そのことにひどく興奮しているようだった。拳を握りしめ、額に汗を浮かべてふたりの立ち回りに魅入っている。
 クロードは立ち上がり、肩で息をついて、なまくらと化した剣を構えた。ディアスももはや剣を収めることを忘れるほど疲弊していた。どちらも限界が近づいている。
 ディアスが空破斬を放った。クロードも空破斬を返す。ぶつかりあう衝撃波に紛れてディアスがクロードに斬りかかる。クロードは剣を交えるのを避けて、後退しながら気功掌を飛ばした。ディアスは瘴気を込めた剣でそれを真っ直ぐ弾き返す。闘気の塊がそのままクロードに向かっていく。跳躍してそれを躱すクロード。ディアスも高々と跳躍し、クロードのさらに上空から急襲する。振り下ろされる剣にクロードは剣を突き出して受け止めた。閃光。弾き飛ばされたクロードは背中から落下していったが、寸前で身を翻して地面に着地した。そして上空のディアスを仰ぐ。
「これで終いだ、クロード。この俺の最大の奥義、その身にしっかりと焼きつけておけ」
 ディアスが剣を掲げた。剣から炎が噴き上がり、刃を包み込む。まるで剣そのものが変化したかのように、真紅の炎が鳥の姿を成した。それを見たクロードもすかさず掌を天に翳《かざ》した。右腕に闘気が集中する。
「朱雀衝撃破!」
「吼竜破ッ!」
 朱《あけ》の鳥と闘気の竜が正面からぶつかり合う。クロードの竜は、前に見たときよりも格段に大きくなっていた。──成長している?
 炎と闘気がふたりの中心で炸裂した。その余波を食らったのは、空中にいたディアス。烈風に巻き上げられ、地面には辛うじて着地したものの、体勢が崩れて片膝をつく。そして前を向き──目を見開いた。
 クロードが猛然と斬りかかってきていたのだ。
 立ち上がって剣を構え直す余裕はない。膝をついたまま右手の剣に瘴気を込め、目の前まで来たクロードに向かって、振るった。クロードの剣がディアスの肩を裂き、ディアスの剣がクロードの腹をえぐった。そうして、ふたりは折り重なるようにして倒れた。
「クロード! ディアス!」
 レナはすぐさまフィールドの入り口へと駆けていく。
「あーあ、相討ちか。まァいいや。ずいぶん楽しめたからね」
「ミラージュ」
 隣にいたナールが咎めるように言っても、ミラージュは飄々《ひょうひょう》としたもので、懐から煙草を取り出して金のライターで火をつけた。
「そういや市長。崩壊紋章のことだけど」
「打開策が見つかったのか?」
 ナールが身を乗り出した。ミラージュは煙草を吹かして、フィールドのふたりに目を向けながら。
「あァ。いったん発動した紋章を止めることは不可能だ。できるのはその発動対象をずらすことだけ。なら、方法はひとつしかないだろう」
「どういうことだ?」
 ナールが訊くと、ミラージュは煙草を銜《くわ》えたまま、ニッと笑った。
 フィールドでは、クロードとディアスが並んで仰向けになっていた。クロードは腹から、ディアスは肩口から止めどなく血が流れ出ている。にもかかわらず、ふたりの表情には笑顔すらこぼれていた。まるで遊び疲れて草原に寝そべった少年たちのように。
「おい。ディアス」
 クロードが空を向いたまま、呼びかけた。闘技場の屋根が円状の額縁となって、空はひとつの巨大な絵画のようだった。
「お前、腕がなまったんじゃないのか? 僕ごときにこんな手こずるなんてさ」
「ふん。手加減してやっただけだ。病み上がりを相手に真剣にやったら、後でレナにどやされるからな」
 ふたりは声を上げて笑った。白い綿雲の流れる青空に向かって。
「こら、そこのバカチンども!」
 そこへ、ようやくフィールドに降りることのできたレナが、つかつかと歩いてきた。
「血だらだら流してるくせに、なに大笑いしてるのよ! そのマヌケ面のまんま死んでも知らないからね!」
 どやされて、クロードとディアスは顔を見合わせる。そして、また笑った。


 バークの『長老』は、紫の光線を撒き散らして反撃に転じた。壁を貫き、天井を砕いて岩塊が崩れ落ちる。かすっただけで服が焦げ、肌を灼かれる光線に、彼らはたまらず背後の通路へと避難した。『長老』はしばらく狂ったように光線を吐き出していたが、唐突にそれも止み、また、誰かが戯れに彫り込んだような両眼でこちらを睨んできた。
 彼らはふたたび部屋に入った。『長老』はこちらを睨むだけで、攻撃する気配はない。そもそも、渠《かれ》は奥の岩壁とほとんど同一化しているのだ。光線を撒き散らす以外に攻撃の手段もなかろう。
「また光線を撃たれると厄介だわ。ここで一気に決めちゃいましょう」
 オペラは他の四人にそう言ってから、ランチャーのカートリッジを取り替えた。セリーヌとノエルが詠唱を始める。ボーマンは両手に破砕弾の丸薬を抱え、エルネストは鞭を持つ手を握りしめた。
 少しの間の張りつめた緊張のあと、一斉に攻撃が始まった。
「ハイパーランチャー!」
 銃口から、その口径の数倍はある光線が放たれ、『長老』の顔面に炸裂した。ボーマンがありったけの破砕弾を投げつけ、エルネストが電撃で加勢する。ノエルのマグナムトルネードの渦が渠を包み込む。そして。
「エクスプロード!」
 セリーヌが杖を振り上げて唱えた。『長老』の眼前、空間上の一点に元素が集約し、一気に膨張しだした。仲間たちはすぐに通路へと逃げ込む。熱を帯び、膨張した空気は『長老』を巻きこんであちこちで爆発を始めた。まるで火薬の山に火をつけたような熱風と、轟音。爆発の嵐の向こうで、渠の頭が砕け、目が取れ、鉱石の塊となって四散していくのが見えた。
 爆発が止むと、あたりはしんと静まりかえった。……いや、地底深くからわき上がってくるような唸りが、どこからともなく聞こえてくる。
「やな感じだ。とっとと鉱物を採取して帰ろうぜ」
 バークの『長老』は、もはや跡形もなく粉砕されていた。彼らはわりと大きめの鉱石の塊を拾い集め、ミラージュから借りてきた麻袋に入れた。唸りはそのうちにどんどん大きくなり、やがて震動を伴った。壁に亀裂が走る。
「やばい。崩れるぞ!」
 麻袋の紐を締めて、彼らは急いで退散を始めた。出ていってすぐに部屋はガラガラと落盤した。五人は狭い通路をひた走る。彼らが通った後から瓦礫が降り注ぎ、通路を潰していく。
「ちくしょう。こんな場所で生き埋めは御免だぜ」
 そのボーマンの呟きに呼応したようだった。やっと出口が見えてきたと安堵したそのとき、前方の天井が崩れて出口へと続く道が塞がれてしまった。彼らは瓦礫の山を目の前に、立ち止まる。背後からは岩の崩れるけたたましい音が近づいている。
 彼らのすぐ横の壁に亀裂が走った。誰もがそこで、死を覚悟した。



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【ひとくち解説】
 ミラージュさん登場。冒頭のシーンは個人的にもお気に入りです。ほとんどオリジナルキャラみたいになってしまったけど。
 反物質の説明は、去年のノーベル賞の関係で少しだけタイムリーな話になってます。偶然だけど。しかし、ほとんどの人は説明しても到底理解できない領域だろうなァ。わたしだって大して理解してないし。
posted by むささび at 15:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説SO2

2009年01月01日

小説 STAR OCEAN 2 〜 ネーデ編 第三章(2)

   2 今、このときだけ。 〜紋章兵器研究所〜

 彼は、暗く深い闇の淵にいた。

 なにも見えない。なにも聞こえない。絶対的な虚無が支配する世界の中で、彼は膝を抱え、瞳を伏せて、蹲《うずくま》っていた。周囲の闇が浸食し、自分も闇に呑みこまれるのを必死にこらえ、またそれに怯えるように。しかし、彼が怯えているのは、闇ではなかった。
 やがて、空間の一点にひとつぶの光が現れた。光はみるみるうちに膨張し、彼に迫ってくる。
 ──眩しい。
 膝を抱える手を固く握りしめる。(いやだ)光は彼を目覚めへと誘う。だが、彼は目覚めるのが怖かった。(もういやだ)光の向こうには、完膚なきまでに打ちのめされ、打ちひしがれた「現実」の世界がある。(もう、戦えない)
 しかし、その光の先には、彼が予期していたものとは違う世界があった。それは目覚めではなかったのだ。
 そこは、戦場だった。見知らぬ世界、見知らぬ場所の。見たこともないばけものを相手に、彼らは戦っていた。若者と、少女と、仲間たち。そして。(──母さん?)
 牙を剥くばけものに、澄んだ瞳の若者が剣を手に立ち向かう。下手《したて》に構え、跳躍しつつ斬り上げ、すぐに斬り下ろす。戦場の音はすべてかき消され、声も聞こえなかったが、その剣技はよく知っていた。(双破斬)
 迫り来る別のばけものの群れに、彼は手をかざして呪紋を唱えた。(呪紋?)ばけものの頭上で爆発が起こり、粉々に吹き飛ばす。(僕が呪紋を?)
 そこで一旦、世界は閉ざされ、また完全なる闇が彼を覆いつくした。光は短いトンネルであり、そこを一気に駆け抜けたような感覚だった。そして、すぐに二度目のトンネルがやってきた。
 そこは、また別の戦場だった。さっきよりは彼に近い世界に属する場所のような感じがした。冷たい床と壁に仕切られた部屋で、彼らは巨大な鋼の怪物を相手にしていた。堅く重い腕が床を砕き、驟雨《しゅうう》のごとく砲弾が降り注がれる。彼らは傷つきながら、それでも決して怯むことなく、果敢に剣を閃かせ、呪紋をぶつける。
 怪物がわずかに動きを緩めた。その一瞬の隙を、若者は見逃さなかった。両手で光の剣を掲げ、全身に気合いを漲《みなぎ》らせる。背後に影が立ちのぼった。影はぐんぐん伸び上がり、天井にも届こうかというほど膨れ上がる。そして、まるで生きているかのように、ひとつの姿を形成する。(──竜)それは、漆黒に輝く鱗に身を包んだ、竜の化身だった。
 若者が剣を振り下ろすと、竜は電撃を迸《ほとばし》らせ、咆哮《ほうこう》を上げて──声は聞こえないが、からだ全体に伝わってくるびりびりとした震動でそれを感じることができた──怪物に襲いかかった。強固な鋼が砕け、融解し、黒き稲妻の名のもとに弾け飛んだ。黒が、戦場を覆いつくす。
 気がつくと、彼はふたたび闇の中に引き戻されていた。たった今、目にしたふたつの光景。だが、それは途方もなく遠い過去の出来事のように思えた。
 ──戦いの記憶は、血によって受け継がれる。
 懐かしい声がした。その声を、彼は迷うことなく受け入れることができた。その記憶が誰のものであったかを、彼は理解したのだ。
 ──これが、私がお前にできる、最期の贈り物だ。
(待って。行かないで。僕はあなたに──)
 ──その力を、大切なひとのために、使いなさい。
 光がやってくる。今度こそ間違いなく、目覚めの光だ。彼はもう、怯えてはいなかった。けれど、僕は。
(僕は、あなたに──謝りたかった)


 クロードが目を覚ましたのは、レナが水を張った器に手拭いを浸して、丁寧に濯《すす》いでいるときだった。固く絞った手拭いを持ってベッドを振り返ると、彼はうっすらと目を開けていた。
「あっ、よかった、気がついたのね」
 レナが笑顔で呼びかける。彼は青い瞳をゆっくりとこちらに向けた。
「僕は……」
 そう呟いたあと、急に目を見開き、掛け布を剥がして起きあがろうとした。
「痛ッ……!」
 苦痛に顔を歪め、右肩に手をやる。何重にもぐるぐる巻きにされた包帯のごわごわした感触があった。
「だめよ。まだ治りきってないんだから」
 レナに寝かしつけられ、仕方なく、再び枕に頭を埋める。レナは手拭いで彼の額と頬と目許を順番に、優しく拭う。
「あなた、フィーナルから戻ってから、まる二日も寝てたのよ」
「二日……」
 クロードは天井を向いたまま、呟いた。
「みんなは無事だったの?」
「ええ。みんな無事よ。ナールさんも。けど防衛軍のひとたちは……」
「……そうか」
 クロードは、手拭いを持って傍らに立つレナを見つめる。憔悴した彼の容貌が、かえっていつもより艶めかしく感じられて、レナはどきっとした。
「ずっと看病してくれたの?」
「え? あ、うん。私も、なんだか眠れなかったから……」
 レナはばつの悪そうに笑って、指で目をこすった。そういえば、自分もひどい顔だったかもしれない。
「僕はもう大丈夫だから、君も休んだほうがいいよ」
「でも……」
「……ひとりに、してほしいんだ。少しだけ……」
 クロードはそう言って、また天井を向いたきり、押し黙ってしまった。レナはどうしていいかわからず、しばらくその場に立ちつくしていたが、やがて手拭いと器を抱えて、静かに部屋を出ていった。
「ごめん」
 ぱたりと閉まったあとの扉に向かって、彼は呟いた。それから、ゆっくりと身体を起こす。包帯の巻かれた傷跡をまじまじと眺め、指先で丹念に撫でる。
 そこまでだった。彼が感情を抑えきれたのは。目を覚ましたときからずっと、はじけ飛びそうだった感情を、どうにかここまで堪えてきたのだった。レナには見せたくなかった、自分の姿。今だけは。このときだけは。
 傷を撫でていた手を握りしめ、膝の上に置く。その拳を見つめながら、彼は泣いた。
 父を、想って──。


 クロードの傷が完全に癒えるまでには、それからさらに三日を要した。それまでは仲間たちも動くことができず、セントラルシティの中で鬱然《うつぜん》と過ごした。ナールはひとり、市長室にこもって何やら考え事をしていたようだった。
 そして、三日後。完治したクロードを加えた八人は、ナールに連れられて、あるトランスポートへと向かった。行き先は、アームロック。
「ここは、ネーデで唯一、武器の製作が許可されている街です」
 雑多な家並みをくぐり抜けるような道を通りながら、先頭を歩くナールが説明した。日当たりの悪い路地に建ち並ぶ住居はいずれも古びており、壁の表面が崩れ落ちていたり、屋根の瓦が欠けていたりもした。開け放たれた両開きの窓が、塵と埃で透けて見えないくらい曇っている。見上げると、空は煙突からの煙で灰色に染まっていた。
「ネーデに出回っている武器はすべて、ここで作られているのです。もっとも、一般のネーデ人には武器の使用は固く禁じられているので、購入するのは警察組織か結成されたばかりの防衛軍、それにみなさんくらいのものですが。需要のない武器を作るのは、よほどの物好きか、あるいは家筋を絶やすまいと親からの技術を受け継いでいる職人ばかりで、ご覧の通り、街はすっかり寂れてしまっています」
「それで、僕たちは、ここに武器の調達をしに来たんですね」
「平たく言えば、そういうことです。しかし、あなたがたの武器はこの街にはありません」
 彼らは怪訝な顔をする。ナールはそれ以上は語らずに、背を向けて淡々と石畳の道を歩いていった。
 うらぶれた路地を通り抜けた先は、大きな扉のついた壁が立ちふさがり、一見すると行き止まりのようにも思えた。頑丈そうな石扉は、壁と同じ褐色がかった白で、中央の縦一直線に溝が走っている。取っ手らしきものも見当たらず、ひとの手では開けられそうもなかった。
 ナールは扉の前で立ち止まり、クロードたちを振り返った。
「この先にある、いや、あると思われる武器は、本来ならば使用されることのないものです。しかし、崩壊紋章まで持ち出した十賢者に対抗するためには、もはや手段を選んでいる猶予はありません」
「崩壊、紋章?」
 クロードが訊き返すと、ナールは思い出したように口を開けて、クロードを見た。
「そういえば、クロードさんにはお話ししておりませんでしたな」
「なんのことですか?」
「フィーナルで、十賢者の背後に浮かんでいた物体のことです」
 翡翠色に輝く球体に、その周囲を動き回る無数のパネル。あの奇妙な動きは今でも脳裏に焼きついている。
「あれが、崩壊紋章?」
「母体となっているのはクォドラティック・スフィアです。ただし、周囲のパネル……あれには紋章が刻み込まれているのですが……あれが然るべき位置に固定されたとき、ひとつの紋章として発動するようになっているのです。その意味は、全宇宙の崩壊」
「なんだって?」
 クロードは信じられないというふうに眉を顰《ひそ》める。誰だって信じられるはずもない。宇宙が消えてなくなってしまうなどと。
「本当にそんな紋章が存在するんですか?」
「あれは我々ネーデ人の間でも、ごく一部の人間にしか知られていないものです。崩壊紋章は長い間、禁断の紋章としてその方法は封印されてきました。いったいどのようにして十賢者に洩れたのかはわかりません。しかし、実際問題として、彼らはその力を手にしてしまったのです」
「けれど、宇宙の崩壊だなんて……。奴らの目的は宇宙征服じゃなかったんですか?」
「強大な力は、抑止力になります。彼らの場合も、おそらく我々を威嚇するために持ち出したのではないかと推測しています。それ以外に、あの恐ろしい紋章を用いる理由は、思いつきません」
 ナールはそこで言葉を切り、扉に向き直った。掌を前にかざすと、たちこめていた霧を突風が吹き払うようにして、扉がさあっと消失した。ナールが先に入り、クロードたちがあとに続いた。
 建物の内部は薄暗く、両脇に手すりのついた通路がずっと続いていた。その先、足元からの光にぼんやりと照らしだされているのは、トランスポートのようだった。この街に武器はない、とナールは言った。つまり、ここからどこかに移動するということだろう。
「崩壊紋章については我々のほうで対応策を考えます。威嚇に使うのであれば、彼らもやすやすと発動させることはないはずですから。ともかく、今の我々に必要なのは、彼らを圧倒するだけの『力』なのです」
「それが、この先にあると?」
「ええ、おそらく」
「いったいどこへ行こうってんだ?」
 ボーマンが焦れたように訊ねる。その問いに、初老の市長は、押し殺した声で答えた。
「……紋章兵器研究所」
「研究所……?」
 ナールが立ち止まった。目の前には、円筒の硝子張りの装置──トランスポートがぽっかりと口を開けて、彼らを誘っていた。


 その地に降り立ったときから、レナは不思議な気持ちが胸の奥でいっぱいになっていくのを感じていた。燻っていた種火がどんどん広がり、強くなって、胸の中で熱く燃えさかっているような。
 静かに、けれど確実に、彼女の中で何かが起こり、動き始めていた。

 トランスポートで転送された先は、森に囲まれた小さな草原だった。
 膝丈ほどの草が一面を埋めつくし、ところどころには、主張するように色鮮やかな花が咲き誇っている。森の樹木はいずれも高く、幹も大のおとなが三人がかりでやっと抱えきれるほど太かった。空に雲はなく、眩い太陽ばかりが澄んだ青の中に収まっていた。日射しは暖かく、心地よい風が服を揺らし、肌を掠《かす》める。
「ねえ。あれ……」
 オペラが皆に示したのは、半ば壊れている何かの建物。草原の向こうに、忘れ去られた遺物のように佇んでいる。
「あれが研究所ですか?」
「ええ。正確には、研究所跡、ですが」
「跡?」
「今はもう使われてない、ということか。……この様子だと、かなり昔から」
 研究所を遠目で眺めやりながら、エルネストが言った。ナールは頷く。
「はい。遠い過去に大きな事故が起こってから、この研究所はずっと閉鎖されたままでした。アームロックのトランスポートがこことを結ぶ唯一の連絡口だったのですが、それも封印が施されていました」
「その封印を解いてまで、やって来たということは」
 と、セリーヌ。
「よっぽど凄い武器が、ここにはあるということですわね」
「何度も申し上げているように、ここに武器があるという確証はありません。ただ、ここで行われていた研究は当時でも、そして現在においても最先端の技術レベルであることは、間違いないのです」
 ナールは順繰りに彼らを見回し、最後にレナのほうを向いた。だが、レナは研究所とは反対の森を向いたきりで、その視線には気づかなかった。
「いろいろ準備することがあるので、私は先に研究所に行っております。みなさんもしばらくしたら、お越しください」
「え、と……あの、ナールさん?」
 クロードの言葉を待たずして、ナールは建物の方へと立ち去ってしまった。
「なんだ……? ここまで来たなら、研究所の中まで案内してくれればいいのに」
 憮然とするクロード。そして横を向くと、彼女の異変に気づいた。
「レナ?」
 呼びかけても、レナはまるで前からそこにあった彫像のように、身じろぎひとつしなかった。感情を伴わない(あるいは押しこめている?)瞳で、森の奥をひたすら見つめるばかり。クロードが顔を近づけると、彼女はか細い声で、ひとつの感慨を口にした。
「なつか、しい……」
「え?」
 レナはそこで初めてクロードの存在に気づき、怯えるようにビクッとして、彼を見た。
「ううん。なんでもない。そんなこと、ないよね。そんなこと……」
 自分に言い聞かせるように言いながら、おもむろに研究所に向かって歩いていく。
「ねえ、ちょっと、レナ……」
 慌てて呼び止めるクロードに、レナは振り返る。
「ここにいたってしょうがないでしょう? 向こうに行ってみようよ」
 そう言うと、すぐに背を向けて、再び歩き出す。クロードは怪訝そうにその後ろ姿を眺め、それから仲間たちを見た。彼らも困ったように、肩をすくめたり首を傾げたりしている。
 少女のなかで、何かが動き始めていた。何かが、少しずつ、確実に。

 建物の内部は、外観から想像していた以上に惨憺《さんたん》とした有様だった。分厚い壁はあちこち崩れて、壁材の大きな塊が道を塞いでいる。天井はあらかた吹き飛び、拉《ひし》げた骨組みの隙間からは澄みきった青空が見えた。ロビーのカウンターは歪み、どこかから飛んできた鉄骨が横の壁に突き刺さっている。廊下の床はあちこち剥がれて、そこからこぢんまりとした草が生えているのが、唯一と言っていいほどの慰みだった。そこは見渡す限り、あらゆる色彩が抜け落ちた「灰色」の支配する場所だった。
「いったい、何があったってんだよ……」
 ボーマンがぽかんと口を開けて、穴のあいた天井を仰ぐ。
「地震や火事ぐらいじゃ、いくらなんでもここまでひどいことにはならねぇぜ」
「クリエイションエネルギー発生装置の実験のときに起こった事故だと聞いてます」
 ノエルが説明した。
「クリエイションエネルギーがどんなものかは、僕も詳しくは知りません。けれど、クォドラティック・スフィアに代わるエネルギー源として開発されていたものだから、相応の威力はあったんだろうと思います」
「絶大な力は、上手く扱えば我々に大いなる利をもたらす。だが──」
「いったん制御を誤ってしまえば……この通りね」
 エルネストの横で、オペラがやりきれないというふうに首を振った。
「人の手に余るような力は、持たん方がいい。力に溺れ、振り回されるのがオチだ」
 ディアスは、いくらか自戒をこめて言っているようだった。
「……レナ?」
 クロードが呼びかけると、レナは少し間を置いてから、こちらを向いた。
「なに?」
「大丈夫? 顔色が悪いよ」
「ううん。平気よ。ありがとう」
 そう強がっておいてから、心配かけまいと廊下をしっかりとした足取りで歩こうとする……が、少しふらついた。異変は、自分が一番よくわかっていた。
 建物に足を踏み入れた瞬間から、急に胸の鼓動が激しくなった。息を吸おうとしても空気が喉の奥でつっかえて、うまく呼吸ができない。目の前がちかちかして、灰色の建物がやけに輝いて見えた。まるで過去に見た光景のように。──過去。
 けれども、自分の中で起こっている異変を、彼女はなぜか不思議とは思わなかった。あたかもその異変は、ここに来る前から予定されていたことであったかのように。それは、夢を見ている感覚と似ていた。夢で起こった出来事は、全て起こる前からわかっていたように感じることがある。既視感《デジャビュ》は、夢の中では必然なのだ。これも夢なのかと、レナはつと疑ってみた。でも、苦しい。この苦しさは、明らかに現実のものだ。これから何が起こるかもわからない。ただ、胸の奥底で、ざわざわと得体の知れないものが蠢《うごめ》いていることは感じられた。何かが起こる。それだけは、間違いない。
「あら、この部屋……」
 長い廊下を歩いていたとき、セリーヌが、とある扉の前で立ち止まった。開かれた扉から覗き込んで危険のないことを確認してから、さっと入っていく。
「なんだなんだ」
「どうしたんですか?」
 ボーマンが、そしてクロードがそれに続く。
 そこは、実験室のような場所だった。真ん中を四角い台が占め、壁際の机には壊れてばらばらになった機材が無残に散らばっていた。半分くらい残った天井からは、コード一本で宙ぶらりんになった照明灯が危なっかしく吊り下がっている。机のある側と反対の壁には立方体の装置が置かれていて、その横に透明な硝子板で仕切られた、小さな部屋のようなものが拵《こしら》えてあった。装置からは青白い電気がさかんに迸っている。この光がセリーヌの目についたようだ。
「漏電してるのか……。セリーヌさん、危ないからそのあたり、近づかないほうがいいですよ」
「わかってますわよ、そのくらい」
 うるさそうに手を振るも、興味津々、少しずつにじり寄りながら、装置を眺める。
「なにして……あ……っ!」
 レナが遅れて部屋に入った、そのときだった。どくんとひときわ大きな鼓動がからだを揺り動かした。部屋の光景が、彼女の中にあったなにかと重なり、結びつく。部屋が怖ろしい赤に染まった。錯覚じゃない。これは、錯覚じゃない。
「レナ!」
 レナは膝をついて倒れた。すぐに起き上がろうとするが、腕に力が入らず、うまくいかない。クロードが駆け寄る。彼女は土埃で汚れた床に向かって、ごほごほと噎《む》せ返った。いっそのこと、胸の中にある不快なものをすべて、吐き出したかった。けれど、喉の奥から何度噎せてみても、吐くことはできなかった。
 しばらくじっとしていると、その奇妙な発作も治まった。ただし、胸の奥の痼《しこ》りのような不快感は残ったまま。その間ずっと背中を撫でてくれたクロードの手を借りて立ち上がり、服についた埃を払う。まだ膝が震えている。大きく二度、深呼吸して気持ちを落ち着かせてから、クロードに向き直る。
「ごめんなさい。もうだいじょうぶよ」
 まだ心配そうなクロードに笑顔を返して、レナは部屋を出ていった。そのとき、扉の前でいちど、部屋を振り返ってみた。部屋は、灰色のままだった。

 廊下の突きあたりの大きな部屋に入ると、ナールが背を向けて立っていた。
 その部屋は他と比べて損傷が少なく、天井もしっかり残っていた。無数の太いケーブルが、蛇の群れのように壁や床を這いずり回っている。それらはすべて中央の巨大な装置に繋がっているようだ。床から天井まで、柱のようにそそり立つその装置の下で、ナールは何かの操作をしていた。
 クロードたちに気づくと、ナールは操作の手を止めて、こちらを振り向いた。
「ここが研究所のデータベースです。うまい具合にシステムも生きていました。準備はできていますので、こちらにお集まりください」
 促されて、八人はナールの前にあった画面を囲むようにして集まる。青く輝く画面にはいくつかの項目が表示されていた。
「研究データベースへのアクセスにはパスコードが必要なようです。その手がかりは、これからご覧になる記録映像の中にあります」
「記録映像?」
「ええ。この研究所が創設されてから、崩壊するまでの全記録です」
 ナールが画面の項目に指で触れると、画面が切り替わり、下から上へ文字が流れていく。
「この研究所を築き上げたのは、ひとりの天才でした。名は、マリエル・ユリオット・リーマ」
 どくん。また心臓が大きく跳ねあがった。あまりの衝撃に、レナは後ろによろめきそうになった。
「彼女はこの研究所でめざましい成果を上げました。時空転移シールドの実用化。レアメタルによる反物質の固定。……そして、クリエイションエネルギーの開発を進めていたときに、悲劇は起こりました」
 どくん。鼓動は、ナールの言葉にいちいち反応しているようだ。もはや、自分ではどうにもできない。
「最初からご覧になる必要はありません。最後の部分だけ、見てみることにします」
 ナールが画面に触れる。文字が消え、映像が再生される。レナは画面から目が離せなくなった。その映像の中に、吸い込まれてしまいそうな気がした。視覚と聴覚だけの光景なのに、その画面に映っている状況を、はっきりと感じ取ることができた。他の人間にとって、それはただの映像に過ぎない。だが、彼女だけは、映像以上の感覚を伴わずして見ることができなかったのだ。
 彼女自身に自覚はなかったが、鼓動はいつの間にか鎮まっていた。胸の中の、ざわつきも。


〈紋章兵器研究所は今から五分後に崩壊します。所員はすみやかにシェルターに避難してください。繰り返します……〉
 避難を勧告する声と、緊急事態を示すブザーがけたたましく鳴り響く。赤々と明滅する光に照らされて、実験の台が、机の機材が、立方体の装置と硝子張りの小部屋が燃え立つように浮かび上がる。
 その部屋に、誰かが入ってきた。ひとりは青い髪の女性。もうひとりは緑の髪の男性。いずれも白衣に身を包んでいる。
「リーマ所長、早くシェルターに避難してください。もうすぐここは、木っ端微塵ですよ」
 男性が身振りをまじえて訴えた。かなり慌てている。
「無駄ね」
 リーマと呼ばれた女性は対照的に、落ち着き払った口調で彼を宥《なだ》める。
「クリエイションエネルギー発生装置の暴走は、シェルターごときでは防げない。どこにいたって同じことよ」
「そんな……」
「でも、外は大丈夫。時空転移シールドとエタニティーフィールドの二重防御によって守られている。暴発時のエネルギーはシールドに吸収されて別の空間に相転移するわ」
「しかし、我々はもう、外に逃げている時間はありませんよ」
「ええ、そうね。だから、私たちはもう終わり。あなただってわかってるでしょう」
 リーマが言うと、男は急に大人しくなって、肩を落とした。彼もまた、自らの命運を悟ったのだろう。
「それより試したいことがあるの。レナを連れてきて」
「お嬢さんを?」
 男は怪訝そうな顔をしたが、彼女に真剣に見つめられ、わかりましたと返事してすぐに部屋を出ていった。
 彼が出ていくのを見送ると、リーマは大きく息をつき、それから立方体の装置の前に立って、操作盤を叩き始めた。ブザーは相変わらず、耳をつんざくほどに鳴り続ける。
 やがて、幼い少女を連れた男が戻ってきた。
「ママ、ママ」
 少女は母親の姿を見つけると、おぼつかない足取りで歩いていった。リーマが膝を折り腰を屈めて、少女を抱き寄せた。
「どうしたの、レナ? ほら、もう泣かない。怖くないよ。ママが助けてあげるからね」
「まさか、所長……」
 男は、リーマが装置の前で操作していたことに気づいて、目を瞠《みは》った。
「お願い。転送の準備をして。もう時間がないの」
「しかし、実験中のやつは、生物を入れるようには作られていません」
 リーマは少女を抱いたまま、困惑する男をきっぱりと見返した。
「このままじゃ、どのみちこの子は死んでしまう。ならば、可能性に賭けてみたいの。大人は入れないから、せめてこの子だけでも」
「可能性といったって……たとえ上手くいっても、どこに飛ばされるかもわからないんですよ。時空の狭間を永遠に漂うことになるかもしれない。そんな危険を、お嬢さんに……」
「大丈夫。この子にはあの能力《ちから》がある。生き延びることさえできれば、きっとあれが護ってくれるわ。……お願い。この子を、死なせたくないの」
 部屋が赤く染まり、暗くなり、また赤くなる。男はしばらくその場に立ちつくしていたが、やがて無言のまま装置の前に立った。
「……ありがとう」
 リーマは男に礼を言って、それから抱いていた少女を前に立たせる。涙でぐしゃぐしゃになった愛おしい顔を、白衣の裾で拭ってやりながら、優しい声色で語りかける。
「ずっと一緒にいてあげたかったけど……ごめんね。ここで、お別れなの」
 そして、自分の首からペンダントを外し、少女の首にかけた。小さな少女には鎖が長すぎたらしく、翡翠色の飾り石は臍《へそ》のあたりまで垂れ下がった。
「少し早いけど、ママからの誕生日プレゼントよ。本当なら、もっときれいな宝石をあげたかった……そう、あなたが、もう少し大きくなってから……」
 瞳から涙が落ちて、頬を伝う。堪えきれずにもう一度、ひしと少女をその腕に抱いた。
「ごめんね……。ママを、許してね……」
「所長。時間が……」
 男が呼びかけると、リーマはゆっくりと少女を放し、小さな肩に手を置いたまま、顔をこちらへと──画面の方へ──向けた。
「研究データベースへのアクセスは、H─1526にあるプログラム『ファルコン』を使用してください。アクセスコードは、3248─9976─2168─9934─BZQF。……記録終了《レコード・オフ》」


 画面が一瞬にして中心に凝縮され、最後に一筋の線となって、ふっと消えた。あとには黒い画面に再生完了を示す文字が表示されているのみ。
「……これが、崩壊時の記録です。アクセスコードもわかりました」
 ナールの声が、なぜか非情に聞こえた。クロードは彼女を見ることができなかった。代わりに、ナールに訊ねる。
「あの、所長のお子さんの『レナ』って……」
 ナールは画面を見つめたまま、動かない。光の加減で陰影を投げかけるその横顔は、刻み込まれた皺をいっそう際立たせていた。
「研究所所長、リーマの娘、レナは……」
「私、なんですね」
 仲間たちがレナを見た。思いのほか、はっきりとした声だった。ナールは神妙にレナの顔を刮目《かつもく》して、頷く。彼女はいつもと変わらないくらい、いや、むしろそれ以上に落ち着いているように見えた。
「記憶にあるというわけじゃありません。でも、なんとなく、感じるんです。私は、ここにいたんだなってことが」
「……そうですか」
 ナールは肩を落とす。健気に笑みまで浮かべるレナよりも、彼の方が落ち込んでいるようにすら思われた。
「この事故は、いつ起こったものなんですか?」
 レナが訊くと、ナールは操作盤に目を落として、答えた。
「申し上げにくいのですが、七億年前の出来事です」
「七億、年……?」
 途方もない数字に、クロードは瞬間的に現実感を失った。仲間たちもぽかんと口を開けて、ただ茫然とするばかり。
「レナさんが入れられた装置は、おそらくあのサイズで時空間移動を行えるものだったのでしょう。暴走したクリエイションエネルギーが防御壁として張ってあった時空転移シールドに吸収され、その際、奇跡的に時空間転移を果たしたのだと思われます」
「そして、エクスペルに辿り着いた」
 レナはゆっくりと、天井を見上げた。その表情には、感情が伴っていなかった。
「私のお母さんは、もう、いないんですね」
「はい……亡くなりました。七億年前に」
 クロードは膝の横に置いた拳を震わせた。
 レナがずっと、本当の母親を捜し求めていたことを、彼はよく知っていた。アーリアの夜空の下で母親への想いを打ち明けた少女の姿が、今の彼女と重なる。彼女にとってこの旅は、母親の消息を追う旅でもあったはずだ。それが、こんな形で結論が出てしまうなんて。
 レナと母親の間には、七億年という残酷なまでに永く遠い隔たりが立ちはだかっている。失われた時間は、あまりにも大きすぎた。どんなに頑張っても、埋め合わせはきかない。どれほど願っても、取り戻せない。
「なんか、実感わかないし……だいじょうぶ。私は」
 そう言って、彼女はクロードに向かってにっこりと笑ってみせた。その笑顔が、クロードにはひどく切なく感じられた。
「ともかく、データベースへのアクセスの方法はわかりましたので、早速試してみることにしましょう」
 ナールは再び画面の操作に取りかかった。クロードたちも操作を見守る。その場の空気がわずかに緩んだ、そのときだった。
 何の前触れもなく、レナが、部屋を飛び出したのだ。
「レナ!」
 クロードはほとんど反射的に駆け出し、彼女を追っていった。


 どうして、急に走り出したりなんかしたんだろう?
 自分でも訳がわからなかった。告げられた事実を、しっかりと受け入れたつもりだった。納得したつもりだったのに。
 私はいったい何をしているの?
 逃げ出したってどうにもならないことは、わかってる。ただ、じっとしていられなかった。みんなといっしょにいるのが辛くなった。そうして、気がついたら走り出していた。
 レナは力いっぱい走った。廊下を駆け抜け、ロビーを通り研究所を出て、トランスポートのある草原まで来たところで、何かにつまずいて転んだ。走ったままの勢いで前のめりに倒れて、顔も身体もぜんぶ草に埋もれた。顎を地面につけ、草と土の匂いを感じながら激しく息をきらす。視線の端に光るものがあった。ペンダントだ。転んだ拍子に服の下から飛び出した飾り石が、草の合間に転がっている。レナは腕を伸ばして翡翠色の石をつかみ、掌に載せて鼻先まで近づけた。光を浴びた石は、これまで見たこともないくらい鮮やかに透き通っていた。
 少し落ち着くと、レナは両手をついて立ち上がった。草の葉で切ったのか、左膝に鋭い切り傷ができていた。そこから赤いものがうっすらと滲んでいたが、治療はしなかった。ペンダントは服に仕舞わず、胸許に提げたままにしておいた。
 初めてここに立ったとき、ひどく懐かしいと感じた。それは決して思い違いなどではなかった。私はずっと昔──自分の時間では十数年前。実際の時間では七億年も前に──ここに立っていたんだ。あるいは、誰かに抱かれていたのかもしれない。
 そう、私は覚えていた。胸のぬくもりを。森の匂いを。ゆらゆらと心地よく揺すられ、微睡みかけたその瞳に映っていたのは、聖母のごとき微笑を浮かべた、母の顔。
 知らずと、レナの口からひとつの旋律が洩れた。初めは掠《かす》れたような声だった。そのうちに小さな声ではあるが、よく透った、きれいな声色で歌いだした。夢で聞いた、そして、かつてここで歌ってくれた、子守唄を。

  鳥の歌を聞きなさい、
  この世が悲しみに覆われる前に。
  大地の息吹を聞きなさい、
  この世が闇に包まれる前に。
  主に護られしこの森よ、
  たとえ世界が滅ぶとも。
  永劫を生きるこの森よ、
  私はあなたとともにいます。

 風が草原をめぐり、少女の赤いケープと青い髪を揺らして、森へ抜けていった。レナは歌いながら、草原を横切って森に向かっていく。一歩ずつ、踏みしめるように。

  獣の叫びを聞きなさい、
  この世から希望が失われる前に。
  木々の嘆きを聞きなさい、
  この世がこの世でなくなる前に。
  主に護られしこの森よ、
  どれほど罪が重くとも。
  永劫を生きるこの森よ、
  私はあなたとともにいます。

 何かに導かれるように、レナは森の中を進んでいった。緑の天蓋《てんがい》は、雲に届きそうなほど高いところで陽の光を遮っている。薄暗い、道なき道を、湿った土の地面に踝《くるぶし》まで埋めながらも、歩みは止めることなく。
 やがて、にわかに明るい場所に出た。森を抜けたわけではなかった。正面に、ひときわ大きな樹が生えている。それはどの樹よりも太く、どの樹よりも高かった。岩のように大きな根があちこちに張りだし、まわりの地面を独り占めしている。だからここだけ不自然な隙間ができて、根元まで陽の当たる空間になっているのだ。
 レナは大樹の前に立った。そこから上を仰いでみたが、てっぺんは霞んでよく見えなかった。斜めに射しこむ光が、苔のびっしりと生えた幹を照らす。溢れる緑に、目を細めた。
 同じような樹が、神護の森にもあったな。レナは思った。
 この森は神護の森によく似ていた。いや、たぶんそうじゃない。神護の森が、この森に似ていたんだ。遠くから聞こえる木々のざわめき。肌を優しく包みこむような暖かな日射し。覚えている。ずっと、変わってない。
 軟らかい土を踏みしだく足音が、こちらに近づいてきた。背中を向けたままだったが、その主が誰であるのかは、わかっていた。
「レナ……」
 クロードが声をかけた。反応を示さない彼女に少し戸惑いながら、続ける。
「歌を辿ってきたら、ここに来られて……その、ごめん」
「どうしてクロードが謝るの?」
 レナは振り返った。
「おかしなひと」
「あ……いや、その、なんとなく……」
 頭をかいて口ごもるクロードに、くすくすと笑うレナ。
「ごめんね、急に飛びだしたりして」
 クロードは痛いような笑顔を返して、首を横に振った。レナはまた大樹の幹に身体を向ける。
「ここね、なんとなく覚えてるの。風の匂いとか、陽の明るさとか、森の音なんかも……ここにあるいろんなものが、とっても懐かしく感じられるの」
 クロードは何も言わなかった。立ちつくして、その華奢な背中を見つめるばかり。
「この木、とっても大きいよね。こんなに立派になるまでに、どれぐらいの時間が流れていったのかな。千年、それとも二千年……」
 レナは大樹を見上げていた視線を、不意に落とした。
「私は、この木が生まれるよりずっとずっと前の人間なんだって。そんなの、信じられる? 信じられるわけ、ないよね。だって、私はずっとレナ・ランフォードとして、アーリアの村でみんなと同じように育ったのよ。お父さんやお母さん、村長さまやディアスやアレン、村のみんなに囲まれて暮らしていたのよ。なのに、私だけが、違う時間の違う世界の人間だったなんてね。……ホントに、変な話」
 レナは空元気を出してそこまで話したが、その先はうつむいて、消え入りそうなほど弱々しい声になった。
「ここにいるとね、お母さんのことが感じられる。でも、感じられるだけなの。ちょっと手を伸ばしてしっかりつかまえようとすると、するりと逃げて、なんにも感じられなくなっちゃう。お母さんは私のそばに来てくれてる。でも、私のほうがお母さんを捜せないでいるの。永い長い年月がじゃまをして、お母さんを見えなくしちゃうの。……こんな気持ち、いやだよ。私はもう、自分からお母さんを感じることは、できないのかな……」
「──そんなことない」
 クロードが口を開いた。レナは驚いて彼を見る。優しい笑顔が、そこにあった。
「想ってごらん、お母さんのことを。探すんじゃなくて、想うんだ。お母さんがレナのことを想うのと同じように、レナもお母さんのことを想ってみるんだよ。今までは、レナだってそうしてきたじゃないか。想いの糸をたぐり寄せて、こうしてお母さんを感じられる場所まで来られた。年月なんて関係ない。想いは場所を超え、時間だって超えられる。一度結びついた繋がりは、どんなことがあっても引き裂かれはしないよ。絶対に」
 こちらをじっと見つめるレナに、彼は少し頬を赤らめる。
「うん、だからさ、なんて言うか……そういう繋がりがある限り、決してひとりぼっちなんかじゃないってことだよ。君はアーリアで過ごし、エクスペルで生きた。それだってひとつの繋がりだ。どこから来たなんて関係ない。みんなレナのことを想って、レナもみんなのことを想った。そうやってみんな、結びついていくんだよ。ウェスタお母さんだって言ったろ? 『何があってもあなたは自分の子供だ』って。繋がりは、想いの数だけある。もちろん僕やみんなとだって。セリーヌさんやボーマンさん、オペラさん、エルネストさん、ノエルさん、そしてディアス。みんなの想いを、絆を、感じてごらんよ」
 レナは何かを堪えるように下を向いて、唇を噛んだ。クロードはそっと歩み寄ると、手を握り、耳許で囁いた。
「大丈夫。君はひとりじゃない。みんながいる。僕がいる。辛いことも悲しいことも、一緒に受け止めてあげる。だから、もう我慢しなくていいよ」
 彼の言葉が、ぬくもりが、胸の奥に沁みこんでいく。無意識のうちに閉ざされたこころ。それが春の雪解けのように融けていき、隠していた感情が露わになる。もう、抑えきれない。一枚の布が端から解《ほつ》れ、どんどん綻《ほころ》びて無数の糸となっていくように、張りつめていたものが緩んでいく。自分の中の何かが外れ、バラバラになっていくのを、少女は感じた。このままじゃ、私はちりぢりになって、霧のように消えてしまう。受けとめてほしい。だれか。
 ──受け止めてあげる──。
 露をたたえた瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。いったん堰《せき》を切ると、止められなくなる。
 もう、堪《こら》えることはないんだ。だから。
 ──クロード。
 クロード。
 クロード──!!
 少女は、彼の胸に顔を埋めた。逞《たくま》しい身体に縋《すが》りつき、涙をぼろぼろとこぼして泣き崩れた。クロードは背中に手を回し、優しく少女を抱いた。嗚咽《おえつ》まじりに声をあげて泣きじゃくる彼女の姿は、あの映像の中で母親にすがりついて泣いていた、幼き少女のものと何一つ変わらなかった。
 純朴そうに目を細め、しゃくり上げるたびに揺れ動く青い頭を見つめる少年。
 ときおり鼻を啜り、呻くような声を洩らして泣き続ける少女。
 枝の隙間からヴェールのように射し込む光がふたりを照らし、大樹は天を支えるようにして、泰然とそこに鎮座している。

 悠久の時が流れるこの場所で、時を超え、世界を超えて、少女は少年と想いを通わせた。
 それは運命ではない。宿命などという軽佻《けいちょう》なものでもない。

 それは、ひとつの奇蹟だった。



 私はだいじょうぶだよ。いつもそうやって、強がってきた。
 みんなのことを、誰よりもわかってるつもりだった。だから、私がみんなを支えてあげなきゃと、思ってきた。
 でもね、よく考えてごらん。
 いちばん私がわかってなかったのは、わたし自身じゃなかったの?
 こんなに弱い自分が私の中にあったなんて、ああ、恥ずかしい。
 みんなを支えてきたと思っていたのが、実は自分がいちばんみんなに支えられてたなんて、笑っちゃうよね。
 でもね、うれしいよ。私はひとりぼっちじゃなかったんだね。
 みんな、ありがとう。

 クロードは、私のことどう想ってるのかな?
 いつもはガミガミうるさいくせに、なにかあるとすぐ調子よく泣きついてくる、なんて思ってたりして。
 でもね、それだったらおあいこなんだよ。あなただって寂しがりのくせに、すぐ強情ぶっちゃって。私やみんなのために無茶ばかりして、いつも傷だらけ。治療する身にもなりなさいよ。ってのは冗談だけど、そんなあなたを見てる私のことも、少しは考えてほしいな。
 本気で心配してるんだよ。だってクロード、いつも無理してるようにしか見えないんだもの。
 たまには私のほうを振り返って、こころの底から笑ったすてきな顔を見せてね。
 そんなあなたが、私は好きなんだから。
 ……うん、好きだよ。とっても好き。
 この気持ち、いつかちゃんと、あなたに言えたらいいな──。

 ──────────────────。


 森を出ると、トランスポートの前にナールと仲間たちが集まっていた。
 そんな近くに彼らがいるなんて思ってもみなかったものだから、レナは赤く腫れた目を見られまいと、クロードの背後に慌てて隠れる。
「武器のデータは見つかったんですか?」
 クロードが訊くと、ナールは頷く。
「ええ。一応の収穫はありました」
「一応?」
「ま、いろいろあってよ」
 ボーマンはニヤニヤしながら片目を瞑る。
「そっちも色々あったかもしれんがな……あだだだッ」
 セリーヌとオペラの両方から腕をつねられて、もがくボーマン。
「もう大丈夫なのですか?」
 ナールはレナに訊いた。
「はい。心配かけてすみませんでした」
「いや、私のほうこそ、辛いものをお見せしてしまいましたね」
「いいんです」
 レナは瞳を細める。
「ショックじゃないといえば嘘になりますけど、私が知りたかったことだから」
「……そうですか」
 ナールは少し安心したように、表情を緩めた。そして全員に言う。
「では、そろそろアームロックに戻ることにしましょう」
 ナールが、仲間たちが、クロードが次々にトランスポートに乗り込む。
 レナはポートの手前で、ふと研究所を振り返った。七億年前に破壊され、それきり時の歯車が止まったままの建物は、周囲の風景とほとんど同化しているように見えた。それは森の一部であり、草原の一部であり、空の一部でもあるのだ。
 さようなら、私の故郷《ふるさと》。さようなら、お母さん。
 こころの中でそう呟くと、向き直ってトランスポートに乗りこんだ。光に包まれ、少女の姿がさあっと消滅する。
 ──ありがとう。



--
【ひとくち解説】
 この物語の一番のハイライト……なんですが、どうにもこういうのは苦手です。ラブストーリーとかわたしにゃ無理(;´Д`) それでもできる限り頑張ったつもりです。
 アクセスコードの「H-1526」というのは、昔ERがあったジオシティーズのアドレスの一部です(笑)。しょーもない小ネタですみません。
posted by むささび at 13:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説SO2

2008年12月25日

小説 STAR OCEAN 2 〜 ネーデ編 第三章(1)〈続〉

「変われば変わってしまうものだね」
 足許の土塊《つちくれ》を拾い上げて、マリアナは呟いた。握りしめると土は簡単に崩れ、指先から砂がこぼれ落ちる。
 十賢者が張った防御フィールドを問題なく潜り抜けた一行は、ついにフィーナルの地へと足を踏み入れた。海岸でヘラッシュを降りて少し歩けば、枯れた大地が地平の果てまで延々と続く。地面はひからびて網の目のようなひび割れが広がり、乾いた風が砂埃を舞い上げる。ここには動物や虫たちはおろか、草木の一本として存在を許されていない。ただ、太い幹の木が一本きり、かつての名残とばかりに枯れた姿で地面に立っていた。白骨のような枝をいくつも伸ばした姿は、いずれ崩れ去り消滅する命運を呪う亡者のようでもあった。
 そして、彼らの向かう先には、細長い建物の影があった。砂埃に紛れつつも浮かび上がるあの塔こそが、十賢者の拠点に違いない。遠く離れたこの場所からでも、得体の知れない禍々しさを感じる。
「ここらはもともと、そんなに肥沃な土地じゃなかったけど……それにしても、ひどいもんだね」
「街が跡形もなく消滅しているとは……建物も、住民たちも」
 でも、そのほうがよかったのかもしれないな。ナールの横で、レナは密かに思った。無惨に破壊された街並みを、地面に散らばる、ひとであったものたちの何かを目の当たりにしてしまうよりは、いっそのこと、なにもかもなくなっていたほうがいい。
 ──なにもかも、なくなっていたほうが。
 そう思ったとき、なぜか胸がズキリと痛んだ。ちょうど、あの漆黒の塔を眺めていたときのことだった。痛みはすぐに鎮まったが、そのかわり、鉛の玉を飲み込んでしまったかのように、冷たく重い何かが胸の燠に残っていた。
 なぜ?
 赤茶けた地面を黙々と歩く人間たち。その中で、レナはこの不思議な感覚のことを、ずっと考えていた。前方の建物の影は、確実に、近づいていた。

 凝結された闇を煉瓦として積み上げれば、このようになるのだろうか。人間のありとあらゆる負の感情をかたちにすれば、このようになるのだろうか。それは、どろどろのタールを壁に塗りこめたような、おぞましい瘴気《しょうき》に満ちた塔だった。
「これは……何と禍々しい……」
「人間が踏み込む場所じゃないね、ここは」
 ナールの額には脂汗が浮き、マリアナも歯を食い縛った。
「だけど、ここまで来たんだ。今さら引き返すわけにはいかない。みんな、覚悟はできてるね?」
 隊員たちは神妙に頷いた。クロード、レナ、それに仲間たちも一様に表情を引き締める。もはや躊躇《ためら》う者などいるはずもなかった。
 ナールとマリアナが塔の入口に向かう。彼らも続く。レナは胸許のペンダントを握りしめて、強く祈った。
(お父さん……エクスペルのみんな、私たちをお守りください)

 うつろに開いた入口を潜ると、正面にくすんだ銀色に鈍く光る階段が、上へ上へとひたすら続いていた。最下層のはずなのに、その両脇は底の見えない奈落になっている。他に迷うべき道もないので、彼らは階段を慎重に登っていく。
 長い階段だった。随分歩いたはずなのに、ちっとも先が見えない。しかも階段は、螺旋《らせん》になっているならまだしも、ひたすらまっすぐ続いているのだ。外から見た塔の大きさを考えれば、とっくに壁にぶつかっているはず。クロードたちの脳裏に、勇気の場での出来事がよぎった。また、堂々巡りなのか? その疑念が湧き起こったそのとき、唐突に階段は途切れた。
 登りきった先は、半ば大広間、半ばテラスといった趣の部屋だった。血のように赤黒い床。不可解な模様が光の筋で描かれている壁。吹き抜けになっている正面からは、どんより曇った空と山並みが見渡せた。
「あれは……」
 部屋の一角、垂れこめる黒雲を背景に、巨大な球体が浮かんでいた。エルリアの塔で見たものと似ているが、微妙に違う。球体の周囲には、矩形《さしがた》のパネルのようなものがいくつも漂い、翡翠色に輝きながら不規則に動き回っている。
「あれが、フィーナルのクォドラティック・スフィアなんですか?」
 クロードが訊ねても、ナールは返事をしなかった。ひとりでにパズルを展開しているように、球体のまわりを縦横無尽に動き続けるパネルを、信じられないものでも見たかのように凝視している。
「まさか……そんなはずが」
「ナールさん?」
 譫言《うわごと》のように呟くナールに、クロードが怪訝な顔をした、そのときだった。
 ごおぉぉぉっ!
 いきなり部屋の中を突風が吹き荒れた。不意をつかれた精鋭部隊の何人かが舞い上げられ、天井に叩きつけられる。他の者たちは吹き飛ばされないよう、必死に身を固くする。風は長くは続かず、数秒ほどでピタリと止んだ。
「!」
 クロードが気配を感じて振り向く。翡翠色の球体の前に、三人の男が出現していた。中央に立つは白銀の髪を靡《なび》かせた優男《やさおとこ》。頑強そうな大男を両脇に従えている。いずれもエルリアの塔で見かけた男たちだった。
「ようこそ諸君。待ちかねたぞ」
 銀髪の男が、よく通る声で彼らに言った。
「我が名はルシフェル。完璧な知能と肉体を兼ね備えた、宇宙の真の支配者である」
「ルシフェル……十賢者のひとり、参謀のルシフェル」
 クロードが呟く。すぐに精鋭部隊が武器を手に身構えた。ルシフェルと名乗った男は、冷ややかな微笑を浮かべたまま、人間たちを睥睨《へいげい》している。
「光栄に思うがいいぞ。神聖なるこの場は、本来ならば下賤な貴様らごときが足を踏み入れることすら適わぬ。だが、我らの計画もいよいよ最終段階に近づいたのでな。貴様らにも新兵器を披露してやろうと考え、私が招き入れた」
「新兵器だと?」
 クロードはルシフェルを睨む。彼は少しも意に介さず、右目を隠していた前髪を掻きあげた。その動作で露わになった彼の容貌は、少しでも美に通じているものが見たならば、まさに完璧な美しさに魂さえも凍りついたことだろう。
「我々はすでにエナジーネーデの移動システムと対航宙艦兵器を完成させた」
 鶏冠《とさか》のような髪型をした男が、野太い声で言う。
「さらに惑星破壊兵器の完成もそう遠くない。近いうちに全宇宙は我々の手に落ちる」
「ふざけるな」
 クロードは負けじと食ってかかる。
「そんな悪行がそう簡単にうまくいくものか。連邦が黙っちゃいないぞ」
「残念だが、頼みの連邦も、我らの前では無力に等しい」
 ルシフェルが涼しげな口調で言う。
「奴らの陽電子砲など、ネーデを包むフィールドに阻まれ、ここまで届きもしない。対して我らの反陽子砲は、奴らの船を埃のごとく吹き飛ばし、宇宙の塵としてみせよう」
「反陽子砲だと?」
 エルネストが声を上げた。
「そんなものが、本当に可能だというのか?」
「ふむ。言葉だけでは信じられないようだな。ならば、いよいよお披露目といくか」
 ルシフェルが指を鳴らすと、彼らの真上の天井から大きな磨硝子《すりガラス》のような板が降りてきた。板は外の景色を上半分だけ隠したところで、止まった。
「おい、スクリーンに出せ」
 鶏冠頭が、手首につけた何かの装置に向かって話しかけている。
「茶番はよしな。時間を稼いで隙を狙おうってんなら、無駄だよ」
 マリアナが腰の剣に手をかけ、焦れたように言った。
「ふふ。そう急くな。前座がなければよい芝居も際立たぬというものだ。……そら、来た」
 彼らは目を見張った。半透明の板いっぱいに、ひとつの映像が映し出されたのだ。
 そこは、どこかの宇宙だった。数多の星が、星雲が、暗黒の空間のそこここで輝きを放つ。その画面の中央に、金属で作られた不可思議な物体が浮かんでいる。
「何か知らないが、ネーデの周囲をウロウロしていたのでな。標的になってもらうことにした」
 ルシフェルが言う。鳥とも魚ともつかない形をした、その鉛色の物体は、暗闇の中を不安げに漂っている。
「そん、な……」
 画面を見ながら、クロードが喘《あえ》いだ。
「あれは……カル、ナス……」
「カルナス? カルナスって、あの?」
 オペラが問いただした。クロードは画面に大写しになる物体に目を奪われたまま、呟く。
「……父さんが乗っている艦《ふね》だ」
 レナは驚いてクロードを見た。乗っている? あれに、おとうさんが?
「ほう、そうか。これは面白いことになった。余興にまた花を添えてくれる」
 ルシフェルは心底楽しんでいるようだった。氷のごとき微笑がクロードを縛りつける。
「お前たち、何を……まさか!」
 クロードは悟った。彼らの前座とは、余興とは何であるかを。
「まずは十パーセントで試してみろ」
 ルシフェルが命じ、鶏冠頭が手首の装置に伝える。
「おい、ミカエル。準備はいいか」
〈おうよ。いつでもいけるぜ、相棒。一気にぶっ放しちまおうぜ〉
 部屋全体に、野卑《やひ》な男の声だけが響き渡った。見回しても、それらしき姿は見えない。どこか別の場所にいるのか。
「期待を裏切るようで悪いが、ルシフェル殿はなぶり殺しがお好きのようだ。十パーセントに抑えて撃て」
〈ちっ。つまんねぇな。りょーかい〉
「やめろ!」
 クロードが剣を抜いて鶏冠頭の方に駆け出そうとしたが、その前にいた別の男に大剣を突きつけられ、慌てて制止をかける。
「大人しく見ているんだ。妙な真似をしたら、次にはその首が飛ぶと思え」
 クロードの背丈の倍ほどもあろう大剣を片手一本で支えるその男の腕は太く、むきだしの上半身も、肩から首筋のあたりが異常なほど筋肉で盛り上がっている。堅固な筋肉は、そのまま自らを護る鋼の鎧ともなり得る。
 一分の隙もみせない男と睨み合っているうちに、天井よりもさらに上のほうから、きぃぃぃぃんと、耳をくすぐるような音が聞こえ、程なくして塔全体が震動した。
「発射した!?」
 その場にいた全員が、画面に注目する。鉛色の艦《ふね》の下方から、光の砲撃が彗星さながらに尾を曳いて突進していく。艦を防護するように張られた光の膜が、一歩手前で衝突を防いだ。燻《くすぶ》る光。飛び散る火花。砲撃を必死に食い止める光の膜も、ばちばちと電気を飛ばして悲鳴を上げている。執拗に続いた砲撃だが、それも次第に弱まり、ついには獲物を射抜くことなく消滅した。ホッと胸を撫で下ろすクロード。
「ほう……なかなかやるものだな」
「ふっ。そうでなくては面白くない」
 ルシフェルはすぐに次の指示を告げる。クロードの顔がふたたび青ざめた。
「出力を上げろ。次は三十パーセントだ」
「ミカエル、三十パーセントだ」
〈りょーかい〉
「くそっ!」
 クロードの剣から霊気が噴きあがった。それを振りかぶっていきなり目の前の敵に斬りかかるが、見透かしていた男の大剣はそれより速く、彼の首を狙って振り抜かれた。間一髪、クロードは剣で防いだが、大剣の一撃による凄まじい衝撃までは受け止められず、突き飛ばされ、床を滑って壁に背中をしたたかぶつけた。クロードはすぐに起き上がると、背中の痛みなど忘れてもう一度斬りかかる。男は剣を素振りした。剣先から放たれた衝撃波をまともに食らい、クロードはまた地面に伏した。
「クロード!」
 レナが駆け寄ると、クロードは既に膝をついて立ち上がろうとしていた。衝撃波で服はあちこち綻び、破れ、顔や腕にはいくつもの痣《あざ》や切り傷ができていた。
「待って、今治すから……」
「いらない!」
 レナの手を振りはらって、クロードはまた男に向かって駆け出した。今度の衝撃波は跳躍して躱し、ようやく剣を交えるところまでは行ったが、冷静さを欠いた今の彼に本来の力が出せるはずもなかった。あっさりと打ち据えられ、やはり突き飛ばされる。
「おい、クロード、ちと落ち着け。自分を抑えるんだ」
 この状況を見かねたボーマンが呼びかけても、クロードはまるで聞こえていないように、立ち上がり、男に向かっていく。
「クロード!」
「クロード!!」
 もはや誰の呼びかけにも応じない。起き上がっては斬りかかり、倒れてはまた起き上がる。がむしゃらに剣を振り回す彼の目には、大剣の男の姿しか映っていなかった。苛立ちと焦燥が、彼の判断を大きく狂わせていたのだ。
 何度目かに立ち上がり、剣を握り直したそのとき、再び塔が揺れた。先程よりも大きな震動だ。
「くっ!」
 クロードは画面を見る。放たれた砲撃は、もはや彗星などと呼べるものではなくなっていた。──光の奔流《ほんりゅう》。それは鉛色の艦を呑みこむようにして襲いかかる。艦を護る膜が波打ち、徐々に薄れていく。これ以上は耐えきれないというところで間一髪、奔流は過ぎ去った。
「反撃するわ!」
 辛くも生き残った艦に動きが見られた。胴体の腹の一部が開いて、そこに青白い光が収束する。光が一定量まで溜まると、そこからひといきに光線が放たれた。こちらに向けて撃ったのであろうが、虚しくも、いつまで待ってもここには、その光の一粒とて届きはしなかった。
「はっはっは。あの程度の武器でこちらに攻撃を仕掛けるとは、おめでたい連中だ」
 ルシフェルは哄笑《こうしょう》した。それからクロードを見て。
「そちらの元気のいい小僧も、もうおネムの時間か?」
「なっ、なにを……っ!」
「それでは、いよいよフィナーレといくか。派手に散ってくれよ」
 一度は拳を握りしめたクロードだが、その言葉で色を失う。
「出力を上げろ」
「これで最後だ。出力を上げろ」
〈りょーかいっ〉
 剣から霊気が抜け、地面にからんと落ちた。「最後」を前にして、抗う気力さえも失った彼は、膝を折り、両手を地面につき、赤黒い床に向かって呻いた。
「お願いだ……もう、やめてくれ……」
「やれ」
 非情の声が、なぜかひどく遠くから聞こえたような気がした。天井を見上げ、自らの鼓膜を破らんほどの凄まじい声で、彼は、吼えた。
「やめろぉぉぉぉっ!!」
 塔が、震撼した。
 レナが息を呑み、ボーマンが歯を食い縛る。クロード以外の全員が画面を注視した。
 画面は、前よりも一層大きくなった光の砲撃が放たれたところだった。物凄まじい奔流が艦に押し寄せ、ついに光の膜に穴を穿ち、綿に火を灯したごとく一瞬で消滅させた。丸裸になった鉛色の鳥は、翼を折られ、胴体を裂かれ、ついには奔流の中で爆発した。黄色の火花が飛散し、粉砕されたかけらも同じように弾けて四方八方に散っていく。砲撃が止むと、そこには胴体の一部が、翼の片割れが、もはやどの部分であったかも判らないほど粉砕された破片が、惨たらしく暗黒の宇宙を漂っていた。
 そこで、画面は消えた。半透明の板が、何ひとつ変わることなく、その場所にあった。
 クロードは両手をついたまま、地面を凝視していた。薄く開いた唇が小刻みに震える。全身に氷水を浴びせられたような寒気が走り、鳥肌が立った。ほんのわずかなその間だけ、彼のありとあらゆる思考は停止した。歯車が、がたりと音を立てて外れていく。
「ふふ。なんと見事な、素晴らしい花火ではないか。まるで私の君臨を宇宙が祝福しているようだ」
 ルシフェルのその言葉に、彼の背中がピクリと反応した。床に落ちた剣を掴《つか》み、うなだれたまま、ゆらりと立ち上がる。
「……ろ、す…………ま、えら……」
 頬を伝った滴が顎の先で、ぽとりと落ちた。顔を上げて十賢者たちを睨む。その形相には、確かに、鬼が宿っていた。
「……殺す……殺してやる……お前ら、全員まとめて殺してやる!!」
 そう叫ぶクロードに、レナは震えが止まらなかった。彼が初めて見せた純粋な怒り、そして憎悪。それが、ひどく恐かった。
「ふん。威勢だけは上等だ」
「よほど父親の後を追いたいようだな。同じように宇宙の塵にしてやるか」
「黙れえぇっ!!」
 刃に霊気が炸裂した。クロードを中心として闘気の渦が巻き起こり、周囲に烈風が吹き荒れる。剣の霊気はクロードの背丈ほどにまで伸び上がった。
「見苦しいな、全く……。下らん。莫迦莫迦《ばかばか》しい」
 幻滅したというふうに、ルシフェルの貌から微笑が消えた。冷たくクロードを一瞥《いちべつ》すると、マントを翻す。
「ザフィケルよ。後の始末はお前に任せる」
「承知しました」
 大剣の男──ザフィケルの言葉も待たずに、ルシフェルは旋風を巻き起こし、その渦に紛れるように消えていった。鶏冠頭のほうも同時に、霧散するように姿を眩ました。
「さて……次は貴様らの番だ。せいぜい楽しませてくれよ」
 残ったザフィケルが大剣を振り上げると、天井が歪み、布のようにぱっくりと破れた口から奇妙な物体がいくつも降ってきた。がしゃんと金属の打ち合わさる音をたてて地面に降りたったそれは、冷たい鋼の怪物だった。金属の塊に骨格めいた両手両足のついたもの。甲虫のように六本の足で地面を這うもの。いずれも五、六体ほど、広間のあちこちで始動する。
「しまった、待ち伏せしてあったのか!」
「上等だよ。すべて叩きつぶすまでさ」
 マリアナは剣を抜いて敢然と怪物と斬り結ぶ。しかし他の隊員たちはまさしく降ってわいた敵に激しく動揺し、たちまちわらわらと散開して陣形が大きく崩れてしまった。怪物は腕から銃弾を無差別に放ち、口から砲弾を吐きだした。背を向けて逃げる隊員は背中を撃ち抜かれ、剣を抜いて戦う意志をみせた隊員は敵の標的とされて八方から弾を浴びる。紅の華が周囲に飛散し、次々と倒れる隊員たち。銃声と、爆発と、叫喚《きょうかん》が錯綜し、おびただしい血が流された。
「市長を守るんだ!」
 マリアナと戦士たちはナールを中心に固まって、円状に陣形をつくった。だが、そこにクロードは加わろうとはしなかった。彼はひとり、鋼鉄の集団を相手に、まるで狂戦士《バーサーカー》のように暴れ回っている。
 連続して放たれる銃弾を右に左に跳んで躱すと、クロードは容赦なく剣を振り下ろした。霊剣は強固な金属をものともせず、薄紙を裂くように怪物を一刀両断する。背中を狙った砲弾は振り返りざまに打ち払い、すかさず跳躍して空中で闘気の炎を敵に叩きつけた。地面に降りてすぐに近くにいた六つ足の怪物を薙ぎ払い、次に二本足の怪物に斬りかかる。ところが怪物は軽い身のこなしで跳躍して攻撃を避け、クロードの背後に着地した。振り返る彼の頭に、重厚な金属の腕が振り下ろされ──。
 がくん。怪物の躯《からだ》が大きく揺らいだ。金属の拳はクロードの金髪に触れたところで止まっている。やがて怪物は横ざまに崩れるようにして倒れ、その背後に長身の男が現れた。
「頭を冷やせ。のぼせたままでは倒せる敵も倒せなくなる」
「ディアス……」
 クロードは息をついて、目の前に横たわる怪物を見た。金属の背中は大きく抉《えぐ》られ、そこから濁った液体が床に流れ出ている。ディアスの一撃によるものだろう。
「前に言ったことがあったな」
「え?」
 クロードは顔を上げた。ディアスは微笑を浮かべながら。
「エル大陸に乗り込む直前、お前は俺に聞いてきたな。『勝つにはどうしたらいい』と。あのとき俺が言ったこと、覚えているか?」
「あ……」
 クロードは思い出した。そして、ニッと笑い返す。彼の言わんとしていることが、理解できたのだ。
「『敵のボスを叩きのめし、二度と立ち上がれないようにすることだ』」
 ふたりは駆け出した。ザフィケルの許へと。
「ん? なんだ貴様ら? 俺とやろうってのか?」
「覚悟しろ。父さんの仇だ」
 クロードは剣をザフィケルに突きつけた。
「ふん。粋がるなよ、小僧」
 ザフィケルは景気づけに大剣を振り、それから前に構えた。
「よかろう。この俺が仇だというなら、遠慮なくかかってくるがいい。貴様の怒り、いかほどか試してやろう」
 まずはディアスが斬りかかった。ザフィケルが横に大剣を振るうとディアスは身軽に跳躍し、反対側に降り立つともう一度背中を狙って駆けだす。正面からはクロードが時を同じくして斬りかかった。それでもザフィケルは動じることなく、クロードの霊剣は片手の大剣で、ディアスの剣はもう片方の腕そのもので受け止めた。ザフィケルが両者を力ずくで撥ねつけると、ふたりはそれぞれ背後に退いた。
 今度はザフィケルから攻撃を仕掛けた。まずはディアスと剣を交える。ザフィケルはその無駄と思えるほど大きな剣を軽々と振り回し、ディアスを翻弄する。しかしディアスも速さでは負けない。身軽さを利用して横へ後方へ退きつつ、自分に有利な間合いをつくろうとする。空破斬を放ち、空中からクロスウェイブをぶつける。だが、ザフィケルの鋼の肉体は微動だにしない。
(なぜだ。なぜ攻撃が全く通用しない?)
 ディアスは次第に苛立ってきた。
 執拗に斬り結ぼうとするディアスをザフィケルが大きく剣を振って撥ねのけたとき、クロードがその隙を狙って突進してきた。ザフィケルはすかさず剣を繰り出す。クロードは跳躍してその一撃を躱すと、そのままザフィケルの頭めがけて降下する。振りおろされた霊剣は寸前に差し出したザフィケルの大剣に阻まれた。弾かれて地面に着地した刹那、大剣が彼の喉元めがけて突き出される。クロードは上半身を仰《の》け反らせてそれを避ける。ザフィケルはなおもクロードを集中的に狙う。しかしその隙をついて、ディアスが背後から鳳吼破を放った。その背に焔《ほのお》の鳳凰が炸裂し、ザフィケルは衝撃で足元がぐらついた。この絶好の機会を見逃す手はない。クロードが剣を左手に持ちかえ、右拳を握りしめて一気に懐まで潜りこんだ。拳に闘気を注ぎ込む。
「バーストナックル!」
 灼熱する拳を渾身の力で相手の腹に繰り出した。次の瞬間には、その拳が相手を貫いている──はずだった。
 しかし、鈍い衝撃とともに、拳は止まった。鋼の肉体の表面で、くすぶるような黒い煙を立ちのぼらせて。命中した敵は必ず仕留めてきたこの技が、初めて破られたのだ。
「……所詮は人間か。この程度では俺は倒せぬ!」
 唖然とするクロードを、ザフィケルはお返しとばかりに殴りつけた。クロードは壁際まで吹き飛ばされるが、途中で反転して着地するとそのまま剣を振りかざしてザフィケルに向かっていく。
 ──これが、最後だ。
「うぉぉぉぉぉぉぉっ!!」
 クロードの気魄《きはく》をザフィケルも感じ取ったのか、表情を引き締め、大剣を構え直してクロードと切り結ぶ。ディアスが、レナが、全ての者がその一瞬に注目した。霊剣と大剣が交錯した刹那、激しい光が迸《ほとばし》った。
「──────っ!」
 眩い光の中で彼らは見た。
 粉砕された霊剣。そして、肩から血を噴いて倒れていく、黄金色の髪の青年の姿。
「く……クロードーーーっ!!」
 レナが絶叫する。そして駆け寄ろうとするが、ボーマンに腕をつかまれる。
「まだ向こうには敵がいる。危ない」
「クロード! クロード!」
 レナは何度も彼を呼んだ。クロードは地に伏したまま、動かない。切り裂かれた肩口からは、赤いものが止めどなく流れ出ている。
「何ということだ……まさか、これほどまでに実力の差があろうとは……」
 ナールは茫然と呟いた。クロードが倒れ、精鋭部隊も立っているのは数人のみ。もはや敗北は必至だ。
「市長。撤退しましょう。このままでは全滅です」
 マリアナの進言にナールも同意はしたが。
「だが、奴もそう簡単には逃がしてくれないだろう。どうするつもりだ?」
「私があいつを引きつけます。その隙に市長はみんなを誘導してください」
 マリアナはそう言って、ナールが止める間もなくザフィケルのところへ行ってしまった。
 ザフィケルは残るディアスを追いつめていた。剣も技も、ディアスの攻撃はことごとく弾かれてしまい、ザフィケルの重い一撃をどうにかやり過ごすのがやっと。しかも相手はまるで疲れを知らない。ディアスの動きが緩慢になってきたところを、ザフィケルは大剣でディアスの剣を打ち払った。手から柄がすっぽ抜け、剣が宙に舞った。返し刀は横っ跳びでかろうじて避けるものの、最後に残った腕が大剣の切っ先を掠めた。腕を抱えて蹲《うずくま》るディアス。その彼を真っ二つにせんと、ザフィケルは大剣を掲げた。
 と、両者の間に突如、緑の髪の若者が飛び込んできた。いや、違う。女性だ。振り下ろされた大剣を剣の腹で受け止める。
「あんたたちは逃げな」
 マリアナはディアスに目配せした。ディアスは怪訝そうに眉を顰《ひそ》める。
「あんただってわかるだろう。このままじゃ勝ち目はない。私が食い止めてる間に、早く!」
「食い止める、だと?」
 ザフィケルが嫌らしい笑顔を作る。殺気を感じたマリアナは横に退いて間合いをとった。
「窮地に立たされ気でも違ったか。貴様ごときがこの俺を食い止める? はっ。とんだ妄言だ」
「言ったね。後悔するかもしれないよ」
 マリアナは挑発的に相手を睨みつける。そして、背後のディアスに叫んだ。
「さあ、行くんだ!」
 彼女の声に背中を押されるようにして、ディアスはその場を離れる。まだ納得はしていないが、今の自分には何もできないことも事実なのだ。
「おい、クロード……駄目か」
 ディアスは倒れているクロードに声をかけたが、反応はない。仕方なく、負傷していない方の腕で抱き起こすと、そのまま仲間たちのところへ引きずっていく。行く手にはまだ鉄の怪物が数体残っていたが、ボーマンやエルネストが敵を牽制して道を切り開いてくれていた。
「クロード……」
 ディアスがレナたちの前でクロードを降ろす。右肩から胸のあたりまでが深々と裂かれ、服は血液に浸されて、袖口《そでぐち》や裾からさかんに紅い滴が落ちている。瞑目する顔は不自然なほど白く、まるで生気が感じられない。レナは傍らに座り込んで、ぼろぼろと涙をこぼす。
 呪紋を唱えられる状態でないレナの代わりに、ノエルがひとまず治療を施した。
「傷口は心臓までには達していない。まだ助かるよ。けれど、僕の力では完全に傷を癒すことができない。なんとか血を止めないと……」
 彼らはレナを見た。けれど、今の平静を失った彼女では、おそらく呪紋は使えない。呪紋は精神と肉体の均衡が保たれて初めて、扱うことができるのだ。
「とにかく、いったん戻りましょう。街に戻ってクロードさんの治療をしなければ」
 ディアスの外套を傷口にあてがい、脇に通し、肩から背中に回したもう片方の端と結んで包帯とする。そうして人間たちは撤退を始めた。クロードはボーマンが担いで、全員で出口へと向かっていく。扉に立ちふさがる怪物はセリーヌの呪紋で破壊された。
 扉を潜って階段へ降りようとしたとき、オペラが部屋を顧《かえり》みる。そこではまだマリアナが、ザフィケルを相手に戦っていた。
「ねえ、ちょっと、あの隊長さんは?」
「マリアナは後から来ます。さあ。急いで」
 ナールに急き立てられ、オペラも少し気になりつつも、階段を降りていった。
 マリアナがザフィケルの剣を打ち払って間合いをとる。そして、階段の下へ消えていく彼らの姿をチラッと見ると、口許をつり上げた。これでいい。後はもう少しだけ、時間を稼げば。
「ちっ。雑魚相手にいささか時間をかけすぎたか。お遊びは終わりだ。消えてもらうぞ」
「上等だね。私も、命がけで食い止めさせてもらうよ」
 そう言ってから、マリアナは不意に微笑を洩らした。戦いの場にまったく似つかわしくない、安らぎの笑顔だった。
「どうせ私たちが進むのは、破滅の道だ。死ぬことに恐れなんか、微塵も感じちゃいないさ」
「なんだと? それはどういう……」
 ザフィケルの言葉を待たずして、マリアナが斬りかかった。剣戟《けんげき》が、部屋に響いた。



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【ひとくち解説】
 今回出てきた宝珠の設定はオリジナルです。原作では単なるお飾りアイテムになっていたけど、せっかくだから意味を持たせてみようと思いまして。完全な種明かしは第四章にて。
 宇宙船の描写は非常に難儀しました。一応レナ編なのでメカニカルな用語は一切使えないし。わかりにくかったらすみません。
posted by むささび at 15:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説SO2

小説 STAR OCEAN 2 〜 ネーデ編 第三章(1)

第三章 悠久の地へ


   1 越えられない壁 〜フィーナル〜

 市長室の扉を潜ると、ナール市長は事務机の前にいた。向かいには見慣れない緑色の髪をした女性が立っている。
「おや、みなさん」
 ナールがこちらに気づいて、声を上げた。緑の髪の女性は少しだけ振り返ると、すぐに机に向き直った。
「それでは私はこれで」
「あいや、しばしそこで待っておれ。彼らにも紹介しておきたい」
「は……」
 女性はすっと机の脇に退いた。ナールは何事もなかったように八人を出迎える。
「どうぞみなさん、こちらへ」
「あの、そちらの方は?」
 クロードが女性を見ながら言った。
「ああ、彼女については後でお話します。まずは四つの場の報告を」
「あ……はい」
 クロードは小首を傾げながら、視線をナールに戻す。
「知の場・力の場・勇気の場・愛の場。四つの場の試練、確かに済ませてきました」
「そうですか、それは何よりです。さぞ大変だったでしょう」
「ああ、本当にな」
 ボーマンが悪態をついて、横のセリーヌに尻をつねられる。
「でも、それで強くなったっていう感じは、あんまりしませんけど……」
 レナは自信なげに言った。実際に四つの場を踏破した後での、素直な感想だった。
 試練はどれも厳しかったし、十賢者の妨害もあった。けれど、はたしてそれが本当に自分の力になったのかというと、いまいち実感に乏しい。ネーデの根源とよばれるパワースポットを訪れて、自分たちはいったい何を得たというのだろうか。
 その疑問の答えは、次の市長の言葉にあった。
「それでは、宝珠をこちらに」
 ナールは当然のように手を差し出した。
「え?」
「試練を終えた証として、赤い宝珠をもらっているはずでしょう。それをお渡しください」
「あ、はい」
 クロードはセリーヌに目配せする。彼女はいつもの合切袋《がっさいぶくろ》から宝珠をひとつずつ取り出して、ナールに渡した。ナールは順番に机に置いていき、最後には四つ、灼熱を閉じこめたように赫《かがや》く珠が並べられた。
「あの、その宝珠には何か意味があったんですか?」
 クロードが訊くと、ナールは、ああ、と忘れていたような返事をして。
「そういえば、みなさんにはまだ、お話ししておりませんでしたか」
 机の上の宝珠をひとつ手に取り、目の前に差し出してから、言った。
「これは、クォドラティック・スフィアなんですよ」
「えっ?」
 クロードは眉をつり上げた。
「クォドラティック・スフィアって、エルリアの塔にあった、あの?」
「はい。通常クォドラティック・スフィアは、その質量──つまり大きさと内在する紋章力は比例しています。しかし、これは極めて特殊なタイプで、十賢者がエクスペルに落としたものをも遙かに凌《しの》ぐエネルギーを、この大きさにまで凝縮してあります。実は十賢者がネーデに戻ってきた際、対策のため古い文献を繙《ひもと》いていましたら、偶然にもこの宝珠の存在を知りまして。十賢者も宝珠については何も知らなかったようですが、もし知ってしまって悪用されてはかなわないということで、早いうちに回収してこちらの手元に置いておきたかったのです」
「それなら、どうして最初からそう言ってくれなかったんですか? 試練だなんて……」
「……そうですな。そうすべきでした。申し訳ありません……」
 ナールは背を向けて、緋色の珠を机に置く。その背中に、なぜか不穏を感じた。
「ナールさん。なにか隠しているんじゃないですか?」
 レナの静かな、けれども強い言葉に、ナールは振り返った。真摯な眼差しが彼に向けられる。
「私たちにその宝珠のことを教えなかったのは、なにか別に、知られたくないようなことがあるからじゃないんですか?」
「………」
 ナールは口を閉ざしたまま、顔を背ける。
「教えてください。私たちもあなたといっしょに戦ってるんです。私たちにも知る権利はあります」
「そうですわ」
 と、セリーヌ。
「隠しごとなんてされては、わたくしたちも協力する気にはなれませんわ」
「……わかりました」
 しばらく彼らの顔を見渡していたナールが、口を開いた。
「変に勘繰られて疑心暗鬼になられるのは、私としても本意ではありません。話してさしあげましょう」
 そうして、彼はついに事実を明かした。
「これは、あなたがたの星……エクスペルのことです」
「エクスペルの?」
「ええ」
 レナがふと隣を見ると、クロードの表情が険しくなっていた。ナールのそこまでの言いぶりで何かを察したのだろうか。
「ご承知の通り、十賢者たちはエクスペルにクォドラティック・スフィアを落としました。その目的はエクスペルの公転軌道をずらし、このエナジーネーデと衝突させるため。星ひとつがぶつかれば、この星を覆う高エネルギー体にも一時的に綻《ほころ》びが生じます。彼らはその綻びからネーデに侵入しようと試みたのです。そして、その目論見《もくろみ》は成功しました。エクスペルは消滅し、十賢者はネーデに戻ってきました」
「え……?」
 誰かに頭を殴られたような衝撃が、レナを襲った。セリーヌもボーマンも、ナールの最後の言葉に凍りつく。
「今、なんて……」
「……高エネルギー体との衝突。それがもたらすものは、消滅です。いかな惑星といえども、これは避けられません」
「つまり、それは……」
 レナはまだ上手く呑み込めないでいた。そんな彼女に、ナールはあくまで淡々と、残酷なまでに告げた。
「エクスペルは、もう、この世に存在していないということです」
 セリーヌが腰を抜かす。ディアスまでもが放心していた。レナはクロードを見る。彼は唇を噛んでうつむいていた。
「クロード……知ってたの?」
 彼は厳しい表情のまま、頷いた。
「ごめん。言い出せなかった……」
「それじゃあ、お父さまたちは? エクスペルのひとたちは……」
 セリーヌは愕然としたまま、すがるようにナールの顔を見る。
「残念ですが……」
「冗談じゃねぇ!」
 突如として叫んだのは、ボーマン。
「俺たちは自分の星に帰るため、エクスペルの人間を救うために、ここまで戦ってきたんだ。それが、もう、ないだと? きれいさっぱり消えちまってるって? ふざけんな。やってらんねぇぜ……」
 顔を手で覆って座り込むボーマン。ディアスもセリーヌも、魂を失ったぬけがらのように、茫然としている。冷酷につきつけられた事実が全身を貫く。様々な思いが頭の中を巡り、錯綜する。
 レナはウェスタの姿を思い浮かべた。そこに、ウェスタはいる。けれど、もう、いない? レジスの姿も、アレンのこともはっきり思い描くことができる。クロス王の優しい顔が、無邪気に走り回るケティルの姿が、ユールのはにかんだ顔が、レオンの澄ました笑顔が、次々と浮かび上がっては消えていく。
 もう、みんなみんな、いなくなってしまったの?
 背筋に悪寒が走る。哀しみにならない哀しみ。ことの大きさに、自分という器ははあまりにも小さすぎた。受け入れられない事実に、少女はただ、冷たい雨に打たれた仔犬のように震えるしかなかった。
「……それで」
 クロードが重い口を開いた。この沈黙に堪えきれなかったように。
「そのエクスペルの消滅と、宝珠はどう関わっているんですか?」
「はい。言ってみれば、この宝珠はエクスペルを救う、唯一の『希望』なのです」
「救う?」
 その場に緊張が走る。セリーヌもボーマンも顔を上げて、ナールに注目する。
「エクスペルは消滅したのでしょう? 消えたものを救うなんて、そんなことが……」
「それが、可能なのです」
 ナールは言った。
「この宝珠が特殊なのは、単にその内に秘める莫大な紋章力によるものだけではありません。知・力・勇気・愛。それぞれの場に安置されている全ての宝珠が揃ったときにこそ、真の力が発揮されるのです」
「宝珠の、真の力……」
 レナが呟いた。
「四つの宝珠を同時に作動させると、その膨大な質量とエネルギーが互いに影響しあい、ある空間上の一点に重力場を発生させることができるのです。重力場は空間を呑み込み、時間軸をも揺るがすほどにまで巨大化します。それはつまり、一定空間内の時空間移動をも可能にするということです。時空転移シールド……我々は、この作用をそう呼んでいます」
「まさか……そんなことが」
 オペラが唸った。
「連邦の最先端技術をもってしても不可能なタイムスリップを、ここでやってのけようというの?」
「なあ、どういうことなんだ?」
 いまいち理解できないボーマンが、エルネストに訊いた。
「簡単に言えば、過去の消滅する以前のエクスペルを、この現在に引っ張ってこようということだな」
「そんな! 信じられませんわ」
 エルネストの説明に、セリーヌが目を丸くする。
「錬金術における賢者の石と同じように、時間操作は紋章術の窮極の目的ですわ。けれどそれは、けっして到達することのできない、夢物語だと思ってましたのに……」
「しかも、対象はエクスペルという星ひとつだ。これほどまでに大規模な時空間移動は聞いたことがない」
 エルネストの言葉に、ナールは神妙に頷く。
「むろん、これまでに成功したのはせいぜい島ひとつほどの大きさが限度です。けれども、この四つの宝珠は惑星を転移させるだけのエネルギーを持っているのです。前例はありませんが、理論的には可能なのです」
「うーん……なんか不自然な話ねぇ」
 オペラが腕を組んで首を捻る。
「だいたい、どうしてそんな膨大なエネルギーを秘めたアイテムを残しておいたのよ。それも、わざわざあんな変な仕掛けまで作って隠すなんて。昔のネーデ人は、いったい何のために宝珠を作ったのかしら。まさか未来にエクスペルがなくなることを予言していたわけでもあるまいし」
「言われてみれば……そうですな。文献によれば、この宝珠はエナジーネーデが生まれたと同時に作られたとありますから、三十七億年前……。当時は既に時空転移シールドの理論は証明されていたので、これが時空間転移のために生み出されたことはほぼ間違いないでしょう。しかし、目的や理由については文献も一切触れていないので、それ以上のことは……」
「『理論は証明されていた』って、その当時は理論だけだったんですか?」
「ええ。研究は進められていましたが、実用化はなかなか難しかったようです。初めて時空間転移の実験が成功したのは、つい七億年ほど前のことです」
「つい、ね……」
 オペラがぼやいた。
「……なるほど。つまり、こういうことかな」
 クロードが話を整理する。
「三十七億年前のネーデ人は、何か星ほどのサイズのものを時空転移したかった。けれど、まだ実用化はされてなかったから、遠い未来に実現されることを期待して、それに必要なエネルギーだけを残しておいた、と」
「問題は、その転移したかったものが何であったか、よね」
「そんなこたぁ、どうだっていいさ。とにかく俺たちにとっちゃ、まさに渡りに船だったってわけだ」
 さっきまでの落ち込みようが嘘のように、ボーマンが揚々《ようよう》と声を弾ませる。
「それで、今からさっそくエクスペルを蘇らせてくれるんだよな」
「いいえ。それはまだ無理です」
 ナールに直截《ちょくせつ》に断られ、再度表情を曇らせるボーマン。
「なんでだ? こいつが全部そろえば、その時空なんたらで時間を動かせるんだろ?」
「この宝珠は、あくまで重力場を発生させるだけのものです。これだけでは、とてつもないブラックホールを生み出すことしかできません。それをコントロールして時空間の操作をするには、エナジーネーデの全都市のエネルギーが必要なのです」
「都市の、エネルギー?」
「ええ。ネーデに点在する各都市の地下にはクォドラティック・スフィアが設置されており、都市生活に必要なエネルギーは全てそこから供給しているのです。星ひとつを時空転移させるには全てのクォドラティック・スフィアがなくてはなりません。しかし、我々は現在、フィーナルを十賢者に奪われています」
「奴らを倒して、フィーナルを取り返す必要があるってことか」
「結局、そういうことになるのね」
「よっしゃ。俄然《がぜん》やる気がでてきたぜ!」
 肩でため息をつくオペラとは対照的に、ボーマンは拳を打ち合わせて気魄《きはく》をみなぎらせている。
「それで、ようやく本題ですが」
 と、ナール。
「明日の正午、いよいよ我々はフィーナルへの侵攻作戦を開始します。この作戦にはあなたがたも加わっていただきたい」
「明日ですか?」
 レナは驚いた。
「はい。急な話ですが、時間が経つにつれて我々は不利になります。向こうの準備が整わないうちに攻め込まなければ、勝機を逸することにもなりかねません」
「……わかりました」
 仲間たちの表情を確認してから、クロードが返事をした。
「今回の作戦には、秘密裏に結成しておいたネーデ防衛軍も参加します。……こちらへ」
 ナールに促されて、傍らに控えていた女性が彼らの前に進み出る。長話の間も、彼女は身じろぎひとつせず直立していた。
「ネーデ防衛軍を指揮する、マリアナ隊長です」
 紹介を受けて、彼女は一礼した。首筋で切り揃えられた緑色の髪が、しなやかに揺れる。肌は健康的に日焼けしており、右の頬から口許にかけて、よぎり傷の跡がくっきりと残っていた。油断なく前を見据える双眸《そうぼう》は凛々しく、よぎり傷と相俟《あいま》って、女性というよりはむしろ、十五、六の少年のようにも見えた。
「女のひとなのに、隊長なんですか」
 レナが感嘆していると、マリアナは肩をそびやかして。
「性別なんて関係ないさ」
 少しかすれたような、落ち着いた感じの声だった。
「防衛軍の準備は、整っているのだな?」
 確認するナールに、彼女はさっと向き直って答える。
「精鋭部隊は既にラクアに集結。ヘラッシュの手配も完了しております」
「よし。明日の手はずは先程話した通りだ。今日のところは防衛軍も身体を休めて、明日に備えるように」
「はっ。失礼いたします」
 彼女はマントを翻して颯爽《さっそう》と八人の横を通り抜け、市長室を出ていった。
「かっこいいひとね」
「そ、そう?」
 見蕩れたように囁きかけるレナに、クロードは肩を竦《すく》めた。
「さて、みなさんも今日のところはゆっくりお休みください。明日の正午、ラクアにて侵攻作戦を開始します」
「あの、ラクアって……」
「ああ、まだお教えしておりませんでしたな。ラクアはここから北東、愛の場の浮遊島をさらに越えたところの島にあります。元々は水族館だったのですが、現在は防衛軍の拠点としています。セントラルシティからはトランスポートで行けるので、ご心配なく」
 ナールはそこまで言うと、崩していた表情をもう一度引き締めて、続けた。
「我々は、明日で十賢者との決着をつける覚悟でいます。この戦いには、エクスペルを含めた全宇宙の命運がかかっているのです。……みなさんの健闘を祈ります」
 そんなこと言われても、とレナは思った。いきなり大それた話にされても困ってしまう。自分ではちっとも実感が湧かないというのに。いや、むしろ実感してはいけないのかもしれない。
 ちっぽけな自分だけど、できることを精一杯やる。ただ、それだけのことなんだろう。


 明るい砂浜に、白い波が寄せては返す。視野いっぱいに広がる海は鮮やかな碧《みどり》色をしており、陽の光を受けてエメラルドのように輝いていた。心地よい潮風が、浜辺に生えている椰子《やし》の葉を揺らす。
 水族館であったラクアの建物は、島の入り江のような場所にあった。中央にドーム状のホールと、両脇の展示場であるふたつの棟とは、洒落た窓枠のガラス窓が填めこまれた通路で結ばれている。壁の色は海を意識した濃い青色。空と海の境界を監視する番人のように、そこにどっかりと鎮座していた。
 かつては人波でごった返していたのだろう。しかし今は内部もがらんとして、広さばかりが目立った。水槽は残らず撤去され、部屋の片隅には排水のためのポンプや掃除用のデッキブラシが、もの寂しくそこに転がっていた。
 事務室は、そのまま防衛軍の会議室となっていた。狭い部屋の中央を大きな卓と椅子が占めている。そのさらに奥には医務室があり、白いカーテンで仕切られたベッドの横で、軍医が怪我人を診ていた。
 ロビーから階段を下ると、薄暗い地下の通路がずっと続いていた。空気がこもっているためか、ここでは潮の香りよりも、なまぐさいような臭いが鼻をついた。
 トランスポートでラクアに到着した八人は、ナールの案内でこの通路を歩いていた。
「十賢者の根城となっているフィーナルの周囲には、強力なエネルギーフィールドが張ってあり、通常の手段では侵入することができないようになっています」
 歩きながら、ナールが説明する。
「しかし、我々が調査したところ、海域のエネルギーフィールドは水深百メートルほどの深さまでしか張られていません。あの辺りにはそれよりも深い場所が存在するので、そこから侵入することができるのです」
「だけど、どうやって? 水深百メートルっていっても、結構な深さよ」
「そこで登場するのが、この、ヘラッシュです」
 ナールはそう言ってから、通路の先の広大な敷地へと彼らを招き入れる。促されるままクロードたちは敷地に足を踏み入れ、目を見張った。
 そこは室内ながら、半ば海水が入りこんでおり、港のようになっていた。突堤の手前のあたりでは、隊長のマリアナをはじめとするネーデ防衛軍の精鋭部隊が、ずらりと整列していた。
 彼らが何よりも度肝を抜かれたのは、港に停泊している巨大な生物。立派な帆船ほどの大きさはあろうか、頭と背中の一部だけを水面から出して、そこに佇んでいる。一見すると鯨のような体格をしているが、全身には角か棘のようなものが無数に突きでている。灰色の外殻はかなり堅そうだ。ごつごつした外見とは不釣り合いなほどのつぶらな瞳が、頭の両端についていた。
「あれが紋章生物ヘラッシュです。人を乗せて深海潜航も可能です」
「乗るって、あ、あれに?」
 港の生物を指さしながら、オペラは顔を引きつらせる。
 一行は精鋭部隊の並ぶ突堤までやって来た。マリアナがこちらに気づき、振り向く。
 精鋭部隊はわずか十人程度だった。奇襲作戦だけに大部隊での移動は困難と考えたためか。ナールが彼らの整列する前に立つと、いっせいに寸分違わぬ動作で敬礼する。
「今回の相手は十賢者だ。その実力のほどは、諸君も充分承知していることと思う。だが、奴らとて決して無敵ではないはずだ。臆することなく戦ってもらいたい」
 ナールの激励の言葉が終わると、精鋭部隊はマリアナの指示のもと、桟橋へと向かっていく。これからヘラッシュに乗り込むようだ。クロードたちは、じっとその様子を刮目《かつもく》する。
 先頭を歩いていた隊員が桟橋の端に立って、生物の横腹あたりに突き出ていた角に触れる。するとその角を中心にして、殻の一部がぱかりと割れた。楕円形の扉のように切り取られた殻は、ゆっくりと背中側に持ち上がっていく。そうしてヘラッシュの横腹には、人ひとりが屈んで通れるくらいの穴が生じた。その穴を潜って、生物の中へと入っていく隊員たち。
「さあ、我々も乗り込みましょう」
「え、ええ?」
「大丈夫ですよ。悪いのは外見だけですから」
 ナールに促され、仕方なく桟橋へと向かった。
「さて……」
 クロードは、ヘラッシュの入口らしき穴からそっと中を覗いてみた。そこは意外に広く、明るかった。もっとも、明るいのは先に入った隊員が灯りを点しただけのことだが。少しは安心して、クロードたちもおっかなびっくり、乗り込んでいった。
 内部の床や壁は淡黄色で、想像していたよりもしっかりしていた。そこが生物の中だとは思えないほど。天井は低く、ディアスほどの長身となると首を折り曲げないと立っていられないが、それを除けばさほど窮屈でもない。
「これ、ほんとに生き物の中なんだよなぁ……」
「ちょっと信じられませんわね」
「厳密に言えば、ここは外殻の内側ですからね。ヘラッシュは背中の殻が二重構造になっていて、その殻と殻の間に、このような空洞があるのです」
 最後に入ってきたナールが説明した。隊員が出入り口を閉めて、別の隊員がマリアナに報告する。
「乗船完了しました。ヘラッシュの準備も万全です」
「よし、すぐに出航するよ」
 マリアナの合図で隊員が壁の操作盤を叩くと、足元が大きく揺らいだ。ヘラッシュが潜航を開始したのだ。



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【ひとくち解説】
 文字制限のエラーが出てしまったので2つに分けます。
 20000文字以内かァ……今後も引っかかりそうだな('A`)
posted by むささび at 15:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説SO2

2008年12月18日

小説 STAR OCEAN 2 〜 ネーデ編 第二章(5)

   5 愛のかたち 〜愛の場〜

 赤い布が張ってある四角い小箱に、色違いの口紅が所狭しと並んでいる。ラヴァーはその中から、ベージュがかった赤色をしたものをつまみ上げると、鏡の自分と向き合って唇に紅の先端を押し当てる。
 この日、珍しく機嫌のよかったラヴァーは、フィーナルの中に設けられた一室──もちろんこれも空間を歪めて作られたものだ──で、身支度をしていた。金と黒の縁取りが揺らめく炎を模したような鏡台の前に腰掛けて、鼻歌まじりに紅をさす。部屋には鏡台の他に、黄金色に輝くベッドも置いてあった。ぬらぬらと濡れたように光る絹のシーツの上には、等身大の熊のぬいぐるみが横たわっている。四方の壁は悪夢のようなピンク色の壁紙が張られ、壁掛けの一輪挿しには赤と白のバラの造花が挿してある。個別に見ると統制のとれているようでも、全体として見るとそうでもない、奇妙な部屋だった。
 メイクが一通り完了し、鏡台に顔を近づけて睫《まつげ》の様子を確かめる。そのとき、背後に一陣の風が吹き抜け、白銀の髪の男がそこに現れた。
「んまっ、ルシフェル様!」
 ラヴァーは振り返ると、目を剥いて彼に抗議する。
「いきなり部屋に入ってこないでって、前にも言ったでしょう?」
「ドアがあればノックもできたのだがな」
 ルシフェルは口許をつり上げた。
「いよいよ、お前を遣わさなくてはならない展開になってきたようだ。奴らは四つの場のうち、既に三つを攻略している」
「あら。ということは、あの雪山に送ったクズどもはみんなダメだったのね。まったく、揃いも揃って能無しなんだから」
 ラヴァーは口紅の入った小箱の蓋をぱたんと閉めて、溜息をついた。
「あの『試練』が奴らに何をもたらすのかは知らんが、このまま野放しにしておくのも目障りだ。私の崇高《すうこう》なる計略を、下等生物ごときに邪魔されたくはない……だから」
「わかってるわ」
 ラヴァーは背伸びして、長身のルシフェルの首に手を回すと、瞳を細め、耳許に囁いた。
「あのときから始まったあなたの計画が、三十七億年もかけて、やっと実を結ぼうとしている。ガブリエルも、下の賢者たちも、生みの親さえも利用したあなたこそ、宇宙の支配者にふさわしい」
 ラヴァーはルシフェルから離れて、背を向ける。髪を束ねていた紐を無雑作に解くと、金色の髪が背中に落ちて広がった。
「最後の場は、どこ?」
「愛の場だ。ネーデの中心に漂う浮遊島」
「愛の、場……」
 その名を呟くと、彼女はしばらく何かをしきりに考えていた。しかしルシフェルの視線に気づいて、すぐに頭を振る。
「それじゃ、行ってくるわ」
「吉報を期待しているぞ」
 ルシフェルが言うと、彼女は薄く微笑を洩らし、そして部屋から消えた。

 ……愛の場。愛の場か。
 なんてあたしにふさわしい場所なんだろう!
 あたしは愛に生きる。あのひとの愛を求め、渇望し、あのひとを振り向かせるためにはどんなことだってしてきた。
 そう、三十七億年前のあのときも、あのひとの世界を覆さん一言にあたしは躊躇《ちゅうちょ》なく従い、実行した。そして、計略通りにネーデは終わった。
 世界なんて、宇宙なんてどうでもいい。あたしは、ずっとあのひとのそばについていきたいだけ。どんどん遠くに行ってしまうあのひとを、必死に追いかけて、追いすがっていくだけ。
 あたしはラヴァー。愛に生きる女。あたしの心と体は、すべてあのひとのためにあるのだから。


 ネーデの中心に位置する浮遊島は、普段は雲に紛れつつ漂う、巨大な岩の塊でしかない。だが、今は岩の隆起から隆起へと、橋のような道がいくつも渡されている。道は岩の隅から隅までひたすら続き、その端には、神殿というには小さく、祠というには大きすぎる建物も臨めた。
「あら、もう封印が解かれてる」
 上空から浮遊島を見下ろしていたラヴァーは、岩の台地に蹲って休んでいる動物を見つけた。サイナードだ。その台地から始まっている道を視線でたどっていくと、すぐに人間たちの姿も見つかった。
「いたいた、呑気に歩いてるわ」
 岩の峡谷《きょうこく》に架けられた石の橋を渡っている彼らを眺めながら、ラヴァーは考えた。このまま上空から奴らを急襲するのも手だが、実力の知れない者たちをいきなり相手するのもどうか。もっと確実に、奴らを仕留めるには。
「じゃ、しばらく遊んでいてもらおうかしら」
 ラヴァーはひとさし指を前に向けて、くるくると回した。前方に拳大ほどの闇が生じ、膨れあがって姿見ほどの大きさになる。そこから勢いよく何かか飛び出し、彼女の周囲に集った。漆黒のローブに瘤《こぶ》のついた杖を持ち、死人のような紫色の肌をした老人。円盤の下部から触手のようなものが無数生えている奇妙な生物。巨大な盾を油断なく構えた鎧戦士。いずれ劣らぬ屈強の魔物たちだ。
「あんたたちの仕事は、わかってるわね。……行きなさい」
 ラヴァーが下の一行を指さす。魔物は自分たちの敵を認識して、降りていった。行く手を遮るように降ってきた魔物に人間たちは驚き、すぐに道いっぱいに広がって戦闘にかかる。ラヴァーはその様子には目もくれず、身を翻すと別の場所へと移動を始めた。
「あれで始末がつけば苦労はないけど……まあ、少なくとも時間稼ぎにはなるわね」
 彼女が向かった先は、道の終点にある建物。両側から分厚い煉瓦の壁に挟まれた門の前に降り立つと、逡巡《しゅんじゅん》することなしにそこを潜《くぐ》る。
 建物の内部は、奥からこんこんと湧き出る水で満ちていた。半透明な方形のブロックが、まるで子供が遊んで散らかしっぱなしにした積み木のように、雑然と積み重なり、柱や壁を形成している。淡い水色をした床一面には透き通った水が張ってある。水は全く濁りも澱みもなく、奥から手前への流れで水面が微かに揺れていなければ、硝子張りの床だと思って足を踏み入れてしまいそうなほど。周囲には静寂が立ち籠めており、奥から断続的に聞こえる、ぽこ、ぽこという水の湧き出る音さえ耳についた。やはり半透明をした天井からは、柔らかな光が差し込み、揺らめく水面に降り注いで脈をうつ。
 入り口から中央の一段高くなった円形の床までの細長い道を、ラヴァーは靴音を響かせ歩いていく。やがて円形の床の中心に辿り着くと、立ち止まり、つまらなさそうに辺りを見渡す。
「なによ、なんもないじゃないの。どうなってんのよ、試練とやらは」
〈愛の試練とは、すなわち貴女自身の『愛』と対峙することです〉
「だれ!?」
 ラヴァーは前方を刮目《かつもく》した。奥の、水の湧き出ているあたりから、ひとりの女性がゆっくりとせり上がってきた。
〈貴女の愛は、どこにありますか?〉
 女は問うた。水面に爪先が触れるか触れないか、ぎりぎりの位置に浮かびながら。その貌《かお》は悠然とした美しさを孕みつつも、厳格な母の表情も同時に見え隠れしていた。水を具象化したような、薄いゆったりとした衣裳。陽光のごとく輝く金髪。そのどちらもが、風もないのに靡《なび》いている。
「あたしの、愛だって?」
 ラヴァーは鼻で笑ったが、表情は強張《こわば》っていた。彼女は狼狽《ろうばい》していた。そこに立っている女は、どことなく自分と似ているのだ。なのに、女は、自分とは何から何まで正反対だった。まるで光と闇、白と黒、コインの表と裏のように。
「ふん、上等な口きいてくれんじゃないの」
 挑発するような笑みを浮かべながら、ラヴァーが言った。
「あたしの愛? そんなもの、どこにもありゃしないよ。なぜなら、あたし自身が愛そのものだからさ。ルシフェル様と生き、ルシフェル様と滅ぶ。それがあたしのさだめ。このからだはあのひとの一部であり、あたしはあのひとの愛の全てを担っているんだよ」
 女は表情ひとつ変えずに、無言で彼女を見つめ返す。言うことを言い終えたラヴァーも、恨めしそうに女を睨みつける。
 ──畜生、嫌な静寂だ。
 彼女は歯を食い縛った。握りしめた拳の中はじんわりと汗ばんでいた。
 やがて、彼女を見つめる女の瞳が、わずかに憐憫《れんびん》の色に変化した。
〈貴女の愛には、迷いがあります〉
 そして、淡々と語る。
〈愛されることへの不安。愛されぬことへの苛立ち。不安定な天秤の中心で、貴女は藻掻いています。どちらに傾くこともできずに、立ちつくしています。いや、貴女はどちらにも傾くことができない。不安定な天秤の中心、それこそが自分の存在理由であることを、みずから承知しているからです〉
「なんだって……?」
 ラヴァーは目を丸くした。それから沸々と、怒りが湧いてくる。呼吸が荒くなり、顔が紅潮する。
「迷いだって? ふざけんじゃないわよ。身も心もルシフェル様に捧げたこのあたしのどこに、迷いなんか……」
〈自覚なき迷いが導く先は破滅以外に他なりません。それは闇夜に生きるものが見るうたかたの夢。夜が明け、現実に愕然《がくぜん》とする前に、目覚めるのです〉
「黙れぇっ!」
 ラヴァーは叫んで指を突き出した。たちまち女の頭上に雷が生じ、一瞬にして細身の身体を貫いた。光が炸裂し、水飛沫が舞った。大粒の水滴は無数の波紋を残して水面に吸いこまれ、ごく微細な水の粒は霧となって周囲を漂う。飛沫をいくらか浴びたラヴァーが霧の中を凝視すると、女の姿は、そこから消失していた。
「不安だと? 苛立ちだと? そんな、そんなことが……」
 濡れた掌を見つめて、彼女は肩を震わせた。
 そのとき、背後に気配を感じた。ハッとして素早く振り返る。入口の門のところに、人間たちの姿があった。まだこちらには気づいていない。ラヴァーは感情を押し込め、当たり障りのない笑顔をつくって彼らを出迎える。
「ようこそ。わたしがこの泉の精霊です」
 両手を広げて微笑む彼女に、人間たちはすっかり騙された。
「ここが、終点なんですか?」
 先頭に立っていた金髪の青年が訊いた。
「ええ。あなたがたには、これから試練を受けていただきます」
「試練?」
 三日月の髪飾りをつけた少女が、青年の背後から顔を出す。
「はい。といっても、いくつか質問に答えてもらうだけですが……」
 言いながら、ラヴァーは背中で左手をくるくると回す。彼らの頭上に生じた闇の塊には、誰も気づかなかった。
 闇の中から二体の牛頭の魔物が飛び出したところで、ラヴァーはことさら大げさに、アッと驚いて彼らの頭上を指さした。
「なに!?」
 降りてきた魔物に人間たちは素早く散開して敵を囲んだ。
「こんなところにも魔物が」
 牛頭の魔物は地面すれすれを浮遊している。金髪の青年が剣を抜いて斬りかかるが、敵はふわりと上昇してあっさりと躱してしまう。
 狭い建物の中での戦闘が始まった。刃が煌《きら》めき、呪紋が迸《ほとばし》る。限られた足場での戦闘は、人間たちに不利に働いた。相手はふわふわと宙に浮き、床も水面もお構いなしに動き回る。それを追っているうちに、誤って泉に転落してしまう者もいた。
 つかみどころのない敵に苦戦する人間たち。当然、泉の精霊であるラヴァーには、気にもとめない。彼女はほくそ笑んだ。
 いちばん近くにいたのは、自分の背丈よりも大きな銃を構えている三《み》つ目の女。彼女に標的を絞ったラヴァーは、背後から忍び寄り、そしてひと思いに飛びついて羽交い締めにした。銃が、乾いた音を立てて地面に転がる。
「ああっ!」
「おっと、暴れんじゃないよ」
 ラヴァーは金髪の女の頸《くび》に腕を回し、力を込めた。呻きを洩らす女の顔が赤くなる。
 背後の不穏な動きに、人間たちはようやく気づいて振り返る。ラヴァーは邪悪な笑みを彼らに向けた。
「驚いたかい、ククク。そうさ、あたしは精霊なんかじゃない。本物の泉の精霊など、とうに消してやったよ」
「なんだって?」
 立ちつくす人間たちを後目《しりめ》に、ラヴァーは三つ目の女を抱えたまま、ゆっくりと浮上していく。
「あたしはラヴァー。偉大なる十賢者様のしもべ。あんたたちに恨みはないが、これも命令だ。おとなしく往生しな」
 言いながら、腕の力をさらに込める。女の顔から血の気が引き、みるみる青ざめていく。
「やめろ! 彼女を放すんだ!」
「お黙り。あんたたちの相手は、あたしじゃないんだよ」
 青年の背後から牛頭の魔物が殴りかかる。咄嗟に反応した青年は身体を反転させて剣の鎬《しのぎ》で拳を受け止める。青年が気合いを発すると剣から青白い霊気が噴きあがった。魔物は慌てて拳をひっこめる。
 三つ目の女は、ラヴァーの腕の中で必死にもがいた。頸を絞めつける腕を掻きむしり、足をばたつかせる。
「おとなしくしなって言ってるだろうが!」
 執拗に抗う女が煩わしくなり、ラヴァーは思わず怒鳴りつけた。
「それとも、先に死にたいのかい?」
 そうして、人差し指の腹で彼女の頬を撫でる。鋭く伸びた赤い爪が鼻先を掠め、その爪の鋭さに、女は戦慄した。
「それにしても、あんた、いい女だねぇ」
 ラヴァーは陶然《とうぜん》とした口調で言いながら、爪の先で頬骨のあたりをなぞっていく。
「あたしはね、美人を見ると、どうしようもなく……癪《しゃく》に障るんだよ」
 悪魔の微笑。爪の先が形のよい唇に達し、口の中へと押し込まれる。指で口がこじ開けられ、爪が喉の奥まで入りこむ。女は激しく噎《む》せた。
「苦しいかい? 苦しいだろう。いま楽にして……あん?」
 ひゅん。耳許で何かが空をきった。避ける間もなく彼女の腕に巻きついたのは、しなやかな黒い鞭。腕の肉に食い込んだきり、離れない。
 一体どこから。ラヴァーが視線を流して鞭をたどっていくと、背後の空間が円形に切り取られ、鞭はそこから伸びていた。ハッとして床を見下ろす。女と同じ第三の目を持った男が、鞭を振り下ろした恰好のまま、そこに立っていた。
(こいつ、空間を操る術を……ッ!)
 男は鞭を引いた。ラヴァーの腕に巻きついた鞭の先も引っ張られる。口から指が抜けて身動きがとれるようになった女は、ラヴァーの腹に肘鉄を食わせて束縛から逃れた。
 女が地面に降りたのを確認すると、男は腰を落とし、こんどは両手で容赦なく鞭を引いた。勢いよく引かれたラヴァーの腕が、鞭の巻きついた部分でぶつりと千切れた。凄まじい呻きが建物に響き渡る。
「畜生! この下等生物どもがぁッ!!」
 正気を失ったように叫び狂いながら、ラヴァーは無差別に稲妻を落とした。人間たちは跳び退いていずれも直撃は免れたが、稲妻が床にぶつかった際に巻き起こった衝撃波で、近くにいたものは吹き飛ばされ、泉に落ちた。
 三つ目の女は地面を転がって雷を避け、落ちていた銃を手にすると片膝をついて、起き上がりざまに弾を発射した。ラヴァーはすかさず無事な方の腕を突き出して防御壁をつくる。銃弾は見えない壁に弾かれ半透明の天井に突き刺さった。
 ラヴァーが気を緩めて防御壁を解く。ところが、その瞬間を見逃さぬ者がいた。気配に感づいて振り返ったときには、既にその男は真後ろで構えていた。
「醜いな、その姿。この世に生きる価値もない」
「なっ!」
 長身の男の剣が斜め下から上に突きあげられる。腰から背中をばっさり斬られたラヴァーはついに力尽き、盛大に飛沫をあげて泉へと落下した。
(畜生。こんなところであたしは死ぬのか)
 水中深くへ沈みながら、彼女は思った。冷たく暗い闇の足音が近づいてくる。そのとき、視界の端に誰かが立っているのが見えた。
 それは泉の精霊だった。相変わらず人を憐れむような、胸くそ悪い視線をこちらに向けている。
 生きてやがったのか。それとも、あたしを迎えにきた?
 ……畜生。何が迷いだ。不安だ苛立ちだ。あたしは、ぜったいに、みと、め、ない、から──。
 彼女が初めて流した涙は、水の中にて儚く消えた。闇が覆いつくさんとする視界の彼方で、泉の精霊は、白銀の髪をした想いびとの姿へと変わっていた。


 ──冷たい部屋。
 壁も床も机もまっしろで、ぎらぎら光っている。天井からの白い明かりに照らされて、そこは昼間よりも明るかった。
 まぶしいよ。もっと暗くしないと、眠れないよ。私は目をこすった。
 ──え?
 気がついたら、私は赤ん坊になっていた。だれかの腕に抱かれて。あったかい胸に顔を半分埋めて。
 あなたは誰? 私は顔を上げて、そのひとの顔を見たかった。けれど、顔を上げることはできない。私は赤ん坊なのだから。
 頭の上から、そのひとが囁きかけてくる。なにを言っているのかはわからない。でも、その声を聞いているうちに、なんだか心地よくなってきた。私は目を閉じる。
 柔らかな歌声が、耳元をくすぐる。優しく、そしてちょっとだけ哀しいメロディ。ああ、前にもこんなことがあったな。誰かの腕の中で揺られながら聴いたのは、確かにこの子守唄。やっぱり、あなたは。
 心地よい旋律が誘うのは、安らかな眠り。まどろみのうちに、赤ん坊《わたし》は静かに寝息をたてはじめた。
 ──おやすみ。


 意識が失われるのは、いつも数秒のことだった。けれど、そのわずか数秒の間に、レナは、そしてクロードは、自らの心のうちを透かされたような幻を見るのだった。
「大丈夫かい、レナ?」
 意識が戻ってからもしばらくぼうっとしていたレナに、クロードが呼びかけた。彼の手には、ほんものの泉の精霊から譲り受けた緋色の宝珠が握られていた。
「うん、平気よ。ごめんなさい」
 レナは微笑を返して、それから背後を振り返った。牛頭の魔物の死骸が、ふたつ。ひとつは床に横たわり、もうひとつは水面に浮かんでいた。主人をなくした手下の魔物を倒すのは、これまで厳しい戦いを潜り抜けてきた彼らにとっては、雑作もなかった。
「とにかく、これで四つの場すべての試練は終わったんだな」
 クロードが仲間たちの許に歩み寄って、言った。
「セントラルシティに戻ろう」



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【ひとくち解説】
 今回はラヴァー視点。色々バリエーションを変えないと飽きてしまいますからね。特にこの二章は、ゲーム上では単なるフラグイベント的な意味合いになっているので。章全体としても構成には気を遣ったつもりです。
posted by むささび at 15:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説SO2

2008年12月11日

小説 STAR OCEAN 2 〜 ネーデ編 第二章(4)

   4 偽りなき勇気 〜勇気の場〜

「お食事は、もうよろしいのですか?」
「ええ、ごちそうさまでした」
 クロードの返事ににっこりと微笑んだのは、セリーヌの母親のラベ。亜麻色の髪を背中でまとめ、化粧もつけていない清楚な顔だちは、娘とはまるきり正反対の、淑《しと》やかな印象を受ける。湯気の立つカップを机に置き、かわりに食べ終わった食器を積み重ねて盆に載せると、台所へと下がっていった。彼女が通ったあとで、壁の燭台の炎が斜めになびく。
「結局、事件は君たちのおかげで解決したが、我々はそろって一杯食わされたわけか」
 セリーヌの父、エグラスは深々と溜息を洩らした。術師を装った山賊との戦いで深手を負ったが、その傷はレナの呪紋によってすっかり癒されていた。
「被害者に化けていては、なかなか見抜けないですからね。仕方ないですよ」
「そうですわ。お父様は、立派に戦ったんじゃありませんの」
 クロードの言葉にセリーヌが請け合う。しかしエグラスは、いやいや、と首を振った。
「もっと早く奴の邪悪な気配に気づくべきだった。術師の恰好だけに騙されて、端《はな》から疑おうともしなかった。私もまだまだ、だな」
「でも、クロードもすごいよね。エグラスさんも気づかなかった山賊のボスを、倒しちゃったんだから」
 カップを手に、レナが言った。
「僕だけの力じゃないよ。セリーヌさんがいたから、勝てたんだ」
「その通りですわよ」
 と、セリーヌは鼻を高くする。
「わたくしのエナジーアローが遅れていたら、あなた今頃ここで呑気に茶なんて飲んでられませんでしたわよ」
「はいはい、感謝してますって」
 首をすくめながら茶をすするクロード。娘に屈する少年を見て、エグラスは思わず苦笑した。
「でも、ディアスは褒めていたわ」
 レナが言うと、クロードは机に置いたカップに視線を落として。
「あのひとの剣の腕は、きっと、凄いんだろうな」
 独り言のように、呟く。
「反抗するのは簡単だけど、認めるのは難しいんだ。僕の腕を認めたというのなら、あのひとの腕は、それ以上なんだろう」
「…………」
 一撃で鋼の甲冑ごと砕いた剣技。地面を大きく抉《えぐ》った彼の技。確かに、遠く及ばないかもしれない。
 でも、そうじゃない。ディアスには決してないものを、あなたは持っているじゃない……!
 歯がゆい思いを、彼女は口にすることはできなかった。じっと、彼の自嘲的な表情を眺めるばかり。
「ところで」
 と、エグラスは席を立って、暖炉の前に歩み寄った。
「君たちはソーサリーグローブの調査のために、旅をしているそうだね」
「はい」
 返事をしてから、クロードはエグラスの背中に訊いてみる。
「エグラスさんは、ソーサリーグローブをどのように見ていますか?」
 暖炉は細かく爆ぜる音を立てながら、盛んに炎をあげている。冬というにはまだ早い季節ではあるが、夜になればこの地方は随分と冷え込む。エグラスは腕を組んで、じっと炎に見入っていたが。
「私は、一種のエネルギー体ではないかと、考えている」
 やがて、口を開いた。
「エネルギー体……ですか」
「うむ。紋章術にも、動物を凶暴化させたり、意のままに操ることのできる紋章は存在する。人間の精神からくるエネルギーとはまた異質なものかもしれないが……それでも、そう考えられなくもない」
「魔物化させる、エネルギー……」
 レナは声色を落として、呟いた。
「もちろん、一般的にはただの隕石と考えるのが妥当だろう。それだけでは説明のつかない事態も起きているが、すべてソーサリーグローブのせいだとするのは、いささか抵抗があるね」
 エグラスは、そこまで言ってから、彼らの方を振り返った。
「しかし、ラクールからいきなりエル大陸に渡るつもりかね? 私はあまり勧められないが……」
「どうしてですの?」
「あまりにも情報が不足している。だから先程の話のように、様々な見解が生じてしまう。ラクールに着いたらまずは情報を集め、充分に準備を整えた上でエルに渡った方がいいと、私は思う。……勇気と無謀とは、別物なのだよ」
 エグラスの最後の言葉に、レナは首を傾げた。どこかで似たようなことを言われた気がしたのだ。
 しばらく考えて、ふと横のセリーヌの顔を見たとき、ようやく思い出した。クロス洞穴で、エルへ行くのはやめておけとふたりに忠告した彼女。そのとき、確かに同じ台詞を言っていた。
(そっか、お父さんの受け売りだったんだ)
 そう思うと、なんだか可笑しくなってきてしまった。くすくすと笑っているうちに、セリーヌと目が合う。
「……なんですの、人の顔見て笑って」
「あ、いや、なんでもないんです。ごめんなさい」
 あわてて顔を背けるレナの態度が、セリーヌは気に食わなかったらしい。さらに突っかかってくる。
「わたくしの顔が、そんなにおかしいんですの? ちょっと、こっち見なさい。言ってごらんなさいよ」
「だから、違うんですってば……」
 鬼のような剣幕に泣きそうになるレナ。クロードは茶を飲みながら、それとなく壁にかかった絵を鑑賞している……と言うと聞こえはいいが、要するに知らんぷり、である。
「……顔はともかく、その恰好はなんとかしてほしいな。親として」
 うっかり失言して、とばっちりを食ったのはエグラス。ぼそりと呟いたところを耳ざといセリーヌに聞かれてしまった。
「お・と・う・さ・ま。今の言葉、聞き捨てなりませんわねぇ」
「いや違う、ちょっと待て、セリーヌ」
「それじゃあ、私はこのへんで……」
「あ、僕も……」
 これ幸いとばかりにレナが席を立ち、クロードもあとに続いた。
 翌朝、三人がマーズを発とうというとき、見送りに来たエグラスの顔が心なしやつれていたのは、山賊にやられた傷が完治していないせいでは、なかったのだろう。


 ──……。
 ……ナ、レナ……。

「レナ?」
「えっ?」
 レナは横を向く。心配そうにこちらを覗き込むクロードの顔があった。
「どうしたんだい? さっきから呼んでも全然答えてくれないし」
「あ……ううん、なんでもないの。ちょっと昔のことを思いだしていただけ」
 レナは微笑を返してから、綱を握り直す。サイナードが降下を始めたのだ。
 一行は次なる場へ向かうため、サイナードに乗り込んで移動をしていた。紋章生物の広い背中は八人が乗るには充分だったが、とっかかりに乏しいので、丈夫な綱をぐるぐるとサイナードの胴に巻きつけ、飛行中はそれを掴んで振り落とされないようにしている。
 どこまでも続く海原の上空を、サイナードは滑空するように駆け抜けていく。乗っているレナたちは、時折くる気まぐれな突風に煽られて、服が翻り、帽子をさらわれそうになりながらも、しっかり綱を握りしめて、身を固くする。最近はさすがにサイナードの方も慣れてきたらしく、初飛行のときの曲芸さながらな飛行は影をひそめたが、それでも離陸と着陸の際には肝を冷やす場面も、まれに起こった。
 クロードと並んで最前列を占めていたレナは、徐々に近づいてきた海面に視線を奪われながら、ふと、先程のことを考えてみた。
 どうして急に、あんな前のことを思い出したのだろう。ほとんど忘れかけていたような、ごくありふれた場面なのに。次の『場』のことを、勇気という言葉を頭の中で転がしているうちに、浮かんできたのが、なぜかあのマーズでの一夜のことだった。
(勇気と無謀、か)
 なんとなく、クロードに訊ねてみたくなった。しばらく躊躇《ちゅうちょ》したが、やっぱり思いきって声をかけてみる。
「ねえ、クロードは、勇気ってどんなものだと思う?」
「え?」
 クロードは首を傾げた。そして、少し考えてから、答える。
「うーん、ちょっと、ひとことで言うのは難しいかな。ただ、僕なりに考えてるのは、たぶん、人によっていろんな『勇気』があっていいんだと思う」
「いろんな、勇気?」
「うん。相手に立ち向かうばかりが勇気じゃない。逃げることも勇気になる場合もある。仲良くなる勇気、敵対する勇気、何もしないで立ちつくす勇気……その人がその人であるために起こした行動なら、それはみんな勇気になるんじゃないかな」
 レナには、彼の言わんしていることがよくわからなかった。どうして逃げることが勇気になるの? 立ちつくす勇気? そんなものがあるのだろうか? 疑問は募ったが、きっと前を見つめる彼の横顔を見ていると、それ以上問い詰めるのは何となく憚《はばか》られた。
 クロードの横顔。──そう、今はなんだかすごく、凛々しく見えた。無数の星の粒をちりばめたような青い瞳。形のよい鼻。真一文字にひきしまった口許。陽光に眩しい金髪が風にたなびき、炎のように激しく揺らめく。その姿は聡明な賢人のようでもあり、また勇猛な戦士のようでもあった。空ばかりを眺めていたあの頃の淋しさなど、今では微塵も感じられない。
 何度も助けられたとはいえ、旅を始めてしばらくのクロードはお世辞にも頼もしいとはいえなかった。セリーヌにも揶揄され、ときには叱責され、さんざんたしなめられてきた。それでも歯を食い縛って剣を振るい続け、懸命に立ち向かう彼の姿がいじらしくて、放っておけなくて、子に対する母親のような気持ちで、見守ってきた。
 けれど、ある時を境に彼は変わっていった。……そう、ディアスと戦った武具大会。あの出来事が彼に何かを芽生えさせたのかもしれない。遙か向こうの空ばかり見つめることはなくなり、しっかりと前を向き、現実と向き合いはじめた。まるで、こどもが一人前のおとなへと成長していくように。そして、母親は──。
「お、見えてきたよ」
 クロードが言った。レナは彼に向けていた視線を慌てて逸らし、進行方向に目を向けた。ごつごつした岩山の切り立つ島が、海に浮かんでいる。
「あれが、勇気の場だ」

 硬い岩板に穿《うが》たれた穴をくぐると、内部はひどく濃い靄《もや》が立ちこめていた。このままでは視界が悪すぎて先に進めそうもない。
「クロード、ルーンコードを」
「はい」
 クロードが鈍色の板を出して掲げると、板から光の粒が放出され、靄はしだいに薄れていった。洞内の様子も次第に明らかになる。
 彼らが立っている場所から、幅三歩ぶんほどの岩棚が、ずっと奥まで続いていた。足許からは水の流れる音がする。岩棚より一段低くなったところで、岩と岩の隙間を縫いながら、あるいはその下をくぐりながら、地下水脈が外に向けて流れ出ているらしい。天井は奥に進むにつれて高くなっていく。その先には巨大な鍾乳石も見られた。
「おい、ここになんか書いてあるぜ」
 ボーマンが横の大岩の前に立っている。セリーヌが角灯で照らした。岩の表面を削って石板とした面に、細かく文字が彫り込まれている。
『此《こ》の地は真の勇気を有するもののみを其の根源へと誘う。偽りの勇者は道に惑い、凡《すべ》てを失うであろう。心あるものよ、願わくば畏るることなく、自らの勇気を包み隠さず進まんことを』
「……なんだろう、これは」
「真の勇気だの、偽りの勇者だの、何が言いたいのかさっぱりですわね」
「簡単に言ってしまえば、勇気を持って先に進めということですか。でもなんか、言い回しに含みがありますねぇ」
 結局、石板については後回しにして、彼らは先を急ぐことにした。
 岩棚は洞穴の中央を抜けて、だんだんと幅が広くなってきた。両側の壁の近くでは岩つららがいくつも連なっている。天井から吊り下がる円錐《えんすい》のつららの先から、ぴしゃん、ぴしゃんと断続的に水滴が床に落ち、その床にも石筍《せきじゅん》が突き出ている。あと少し(といっても数十年単位だろうが)で上のつららとと下の石筍がくっついてしまいそうなものや、既にくっついて石柱を成しているものもある。足許の、せせらぎにより近い岩床には、石灰岩の成分が溶けて流れて固まって、大きな皿か蓮の葉のような段差を形づくっている。ひとつひとつの皿には水が張り、無数の鏡を積み重ねたようでもあった。
 やがて、岩棚は二股に分かれた。ここから道が分岐しているようだ。八人は手前で立ち止まって、輪をつくる。
「さて、どうしようか」
 セリーヌが角灯《ランタン》を掲げてみても、道の先まで光は届かない。
「とりあえず、左に行ってみようか」
 道標《みちしるべ》も手がかりもないこの状況では異議を唱える者もなく、クロードの言葉に他の者も無言で了承した。
 両脇に鍾乳石を臨みつつ、彼らは黙々と進んでいく。先はなかなか見えてこない。それどころか、周囲の景色が全く変わっていないような気もする。いや、実際に変わっていないのか? 左の壁際の、あの大きな鍾乳石の柱も、道のすぐ右側に並んだ三つ子の石筍も、足許を流れるせせらぎも、さっきから何度も見ているように思えてならない。
「なんか俺たち、ハマってねーか?」
 沈黙を破ったのは、最後尾を歩いていたボーマンだった。仲間たちが立ち止まって、振り返る。
「気のせいですよ。もう少し歩けば……」
「何があるってんだ?」
 ボーマンは苛立たしげに語気を荒げて、クロードに食ってかかる。
「絶対にハマってるぜ。やっぱりさっきのところを右に行くべきだったんだよ。このまま進んだって、くたびれるだけだ。戻ろうぜ」
「そんな、勝手なこと言わないでくださいよ。さっき僕が左へ行くって言ったときは、何も言わなかったじゃないですか」
「わたくしも、ボーマンに賛成ですわ」
 ふたりの間に割って入ったのはセリーヌ。
「みんなだって感じているでしょう? わたくしたち、ずうっと同じ場所を堂々巡りしていますわ。ここはそういう仕掛けなんですのよ。手遅れにならないうちに戻ったほうがいいわ」
「わかんないわよ」
 と、オペラ。
「入り口の石板には勇気をもって進め、ってあったわね。ここで心細くなって戻ったりしたら、それこそ『偽りの勇者』になっちゃうんじゃないの?」
「なるほど、そういう意味にとれなくもないですね」
 オペラの意見に、ノエルも首肯《しゅこう》する。
「るっせえ。んな石板がなんだってんだ。俺は戻るぜ。おまえらだけで勝手にのたれ死んでな」
 ボーマンはクロードたちに背を向け、右手を振ると来た道を引き返していく。そして、セリーヌも。
「わたくしも戻りますわ。みなさんお気をつけて」
 角灯を床に置き、予備の角灯に火を灯すと、それを片手にボーマンの後をついていった。
「ちょっと、セリーヌさん、ボーマンさんも!」
「放っておけ」
 ふたりに呼びかけたレナに、ディアスが言う。
「やつらの好きにさせればいい」
「なに言ってるのよ! 仲間でしょう!? みんないっしょに行動しないと……」
「言っても聞かないのだから、仕方ないさ」
「仕方ない、ですね」
 エルネストが、ノエルまでが口を揃える。レナは離れていくふたりと見送る仲間たちを交互に見て、狼狽《うろた》えた。
「みんな、どうしちゃったの? どうしてそんなに、冷たいの?」
「さあ、先に進もう」
 クロードは角灯を拾い上げて、レナの視線などまるで気にもとめずに歩き出す。ディアスが、オペラがエルネストが、ノエルが無言でつき従う。
 レナはしばらく、その場で茫然と立ちつくしていたが、ふたつの明かりが遠ざかり、自分の足許が暗くなると、やむを得ず、クロードたちの方へと駆けていった。

 道は、意外なほどあっけなく、唐突に途切れた。湿って鈍く光る岩壁が正面に現れ、そこにぽっかりと大きな空洞が開いていた。ようやくそれまでと違う景色に遭遇したことで、彼らはひとまず安堵した。ところが。
「待てクロード」
「え?」
 空洞に近づこうするクロードを、ディアスが制した。闇の奥に何かが蠢《うごめ》く気配と、鋭くこちらを睨《ね》めるふたつの眼光があった。彼らに再び緊張が走る。
 そいつは空洞の中で、洞窟を震撼させるほどに吼《ほ》えた。それからのそり、のそりと這い出てきたのは、見上げるばかりの巨大な魔獣、フェンリルビーストだった。一歩踏み出すごとに大地を揺るがす太い足。岩のように頑強そうな胴体。そして、口の両側に突き出た、目の前の獲物たちを仕留めるには充分すぎるほど立派な牙。涎《よだれ》をたらし、鼻息荒く地面を見下ろす。自分の巣を荒らされて苛立っているようにも見える。
 仲間たちはすぐに散開して、攻撃を開始した。手始めにクロードが懐に潜りこもうと駆け寄ったが、素早く反応した尻尾にはねつけられる。それならばとディアスは真正面から斬りかかる。魔獣は口をあんぐりと開けて吹雪を吐いた。躱《かわ》しそこなったディアスは外套で顔を覆う。外套は一瞬で霜がこびりつき真っ白な天鵞絨《ビロード》のようになった。湿った地面も凍って、足が張りついてしまう。
「くそっ、動きが速いな。近寄れない」
「あたしが注意を引きつけるわ。みんなで一気にたたみかけてちょうだい」
 オペラの言葉に、クロードとエルネスト、それに、どうにか氷の枷《かせ》から抜け出したディアスが霜を振り払いながら、頷いた。
 オペラがランチャーを構え、魔獣の手前の地面めがけて弾丸を放った。弾丸は岩床にぶつかると破裂し、敵の顎をかすめて火柱が噴き上がった。長い首をそらして怯む魔獣。と同時に、三人がいっせいに動いた。
 エルネストの鞭から迸った電撃が魔物の巨体を捉え、ディアスは鳳吼破で後肢を砕く。山のような躯ががくりと沈んだそのとき、クロードは高々と跳躍し、空中で剣を抜いた。魔物の姿を捕捉しながら、両手に持ちかえた剣に力を注ぐ。刃が闘気をまとった。切っ先を下に向け、その背中に降り立つと同時に盛り上がった脊椎の隙間に突きいれた。霊剣は鍔《つば》と柄を残して深々と突き刺さる。しかし急所には届かなかった。叫び狂い、四肢を叩きつけて暴れる魔獣に、クロードは剣を握ったまま振り落とされる。
「だめですね。何にもまして相手が大きすぎる。ちっぽけな武器での攻撃じゃあ、致命傷すら与えられない」
 ノエルが言う。レナも為すすべなく立ちつくす。暴れ狂う魔獣に、苦戦する戦士たち。
 ああ、セリーヌさんがいれば。レナは思った。あの強力な呪紋で何とかしてくれたろうに。
 ──呪紋。
 レナははっとした。自分にだって、呪紋は使える。だが、彼女の扱える攻撃呪紋程度では、致命傷どころかいたずらに相手を刺激してしまうだけだ。もっと、もっと強い呪紋が、使えたら。
「……お願い。今だけ、このときだけでいいから……」
 レナは目を閉じた。暗闇の中に、針の先ほどの光が燻《くすぶ》っている。右手を前に出して念じると、光は少しずつ、少しずつ膨張していく。
「光よ……宇宙《そら》に遍く星の光よ……力を貸して」
 ついに光が闇を制して、全てが光に包まれたそのとき、レナは瞳を見開いて、唱えた。
「スターフレア!」
 洞内が白熱し、激しい光が充満した。眩みかけた目を必死に開けて前を見ると、魔物の背中に白く輝く塊がいくつも降り注いでいた。魔獣は熱と焔の惨禍の中で悲痛な断末魔を上げる。
「あ、あ……っ!」
 目の前の光景にレナは恐くなって、腕を降ろしてしゃがみ込む。光の塊は唐突に止んだ。魔獣は既に動かない。それどころか、半ば熔《と》けて、潰れていた。
「レナ……」
 クロードが、仲間たちが驚愕の表情でレナを見る。どろどろに熔けてなおも蒸気を上げている、もはやどこの部位であったかもわからない、かたまり。今のこの状況を、誰よりも信じられなかったのは、レナ自身だった。

 熔けた魔物の死骸は岩棚の幅いっぱいに広がって、道を塞いでしまった。異様な臭いも周囲に立ちこめてきた。六人はひとまずその場を離れて、すこし戻ったところの道の途中で、再び集まった。
「ここから、どうするんだ? 進むか戻るか。進むとしたら、あの魔物が出てきた洞穴しかないが」
 エルネストが言うと、クロードは。
「もちろん進みますよ。道が通れるようになったら、あの中に入ってみよう」
「ちょっと、冗談じゃないわよ。またあんなでかいのが出てきたらどうするのよ」
 オペラが難色を示した。
「俺は構わんぞ」
 と、ディアス。
「あんたたち正気?」
 オペラは怪訝そうにふたりを見てから、隣のエルネストの意見を仰ぐ。
「俺も興味はあるが、狭い洞穴の中で魔物に襲われたら、それこそ一巻の終わりだからな。悪いが遠慮しておくよ」
「僕も、魔物が出てきたような場所に入りこむのは、得策ではないと思いますがねぇ」
 エルネストとノエルが口々に言うと、クロードの表情が険しくなった。
 ……険悪な雰囲気。また、仲間が分裂しようとしている。レナはうつむき、膝の横にあてた拳を握りしめる。
「さっき戻っちゃいけないって言ったのはオペラさんでしょう。今戻ったら、何の意味もないじゃないですか」
「ああ、もう、こんな危なっかしい試練なんてやってらんないわ。悪いけどパス。探検ごっこはあんたたちだけでやってなさい」
「そうですか。じゃあ、僕らだけで行きますよ。角灯はこっちで持っていきますから、帰るときは足下に気をつけてくださいね」
 クロードが角灯を持ってさっさと立ち去ろうとした、そのとき。
「やめて!」
 レナが叫んだ。鋭い声が洞内に反響する。クロードたちは目を丸くして彼女を見た。
「もう……もうやめて! みんな、ほんとにどうしちゃったの!? 昨日まで、さっきまであんなに仲良くしてたのに、なんで急にこんなバラバラになっちゃうの? どうしてそんな勝手なことするの?」
 悲痛に訴えてから、レナは何度も首を振る。
「……違う、こんなんじゃない。こんなの私が知ってるみんなじゃない。洞窟に入ってから、みんなおかしくなった。優しさも思いやりも、ぜんぶ洞窟の外に置いてきてしまった。目を覚まして、お願い……」
 瞳が潤み、喉がゴツゴツ痛くなる。それでも精一杯に声を張り上げた。全員が、黙ってレナを見る。レナもそれ以上言葉が出なくなり、うつむいた。長い沈黙が続く。
「……そう、だな」
 クロードが口を開いた。
「僕も、どうかしていたかもしれない。むきになりすぎた」
「確かに、お互い意固地になってしまったかもしれませんね」
「こんな場所で諍《いさか》いを起こしたところで、得るものは何ひとつないな。レナの言う通りだ」
「なによ、急に和解ムードになっちゃって。あたしの言うことは聞けなくても、可愛い女の子の言うことは聞くわけね。なるほど」
 オペラは両手を腰に当ててむくれたが、すぐに口許を緩める。
「ま、いいわ。レナに免じて許してあげる」
 レナは、そっと顔を上げた。正面にいたクロードがこちらを向いて、優しい笑顔を返した。
「レナ、ありがとう」
 ああ、いつものクロードだ。レナもなんだか嬉しくなって、笑みがこぼれた。
「そういえば、ボーマンたちは無事だろうか」
「そうね。あのふたりだから、滅多なことはないだろうけど」
 エルネストとオペラの言葉にクロードも頷いて、角灯を反対方向の道にかざした。
「急いで戻ろう」

 急がずとも、ボーマンとセリーヌの姿はすぐに見つかった。ただし、あまりに大きな「おまけ」もついてきたが。
「あらら、こっちも大変そうねぇ」
 岩棚の下で、ボーマンたちはもう一匹のフェンリルビーストと対峙していた。周囲の鍾乳石はことごとく破壊され、水の張った地面も斑《まだら》に凍りついていた。
「みんなはそこにいて。僕とディアスで助けに行く」
 そう言い置いて、クロードはディアスを伴って岩棚の下へと降りていった。
 ボーマンが魔獣の頭に向かって跳躍した。待ちかまえていた魔獣は大口を開ける。吹雪を吐くつもりだ。次の瞬間に備えて腕で顔を覆うボーマン。しかし吹雪は来なかった。魔物は背中に走った衝撃に呻いている。ディアスが空中からクロスウェイブを放ったのだ。クロードは下からすれ違いざまに左側の後肢と前肢を斬りつけて、魔物の正面に立った。ふたりの出現に調子の狂ったボーマンは、空中で相手の鼻面を蹴って身をひるがえすと、クロードの横に着地した。
「おまえら、何しに戻ってきた」
 素っ気なくクロードに言うと、すぐに敵の懐へと駆け出していった。クロードは肩をすくめ、背後にいたセリーヌに何事か指示を送ってから、後を追う。
「僕としては、放っておいてもよかったんですけどね」
 ボーマンと併走しながら、クロードは言った。岩の塊のような前肢がふたりに襲いかかる。それぞれ左右に躱すと、クロードはもう片方の前肢の前に立った。剣を抜いて横に構え、一閃のもとに振り抜く。闘気が刀身の倍ほどまで噴き上がり、太い前肢をいとも容易く斬り落とした。ボーマンは跳躍して魔物の脳天に踵落《かかとお》としを決める。
「でも、あなたたちがいないとレナが悲しむ。だから僕は助ける。……とりあえず、そういうことにしといてください」
 地面に降りたボーマンは、クロードを見てフッと笑った。
「レナのため、か。お前らしいな」
「それは褒め言葉と受け取っていいですか?」
「はっ、言ってろ。バカップルが」
 ふたりは後ろを振り返った。セリーヌが詠唱を終え、杖を翳《かざ》しているところだった。
「サンダークラウド!」
 天井から稲妻が降り注いだ。魔獣は電撃に打たれ、腹の底まで響く咆哮《ほうこう》をあげた。しかし、両眼の輝きはまだ失われていない。それを見たクロードは、とどめを刺すために跳躍した。岩棚よりも、魔物の巨体よりも遙かに高く。右手に持った剣を振りかぶる。刃の霊気がいちだんと激しくなる。渾身の力をこめて、クロードは剣を振るった。
「ソードボンバー!」
 振り抜いた刃の切っ先から闘気が放たれ、灼熱の彗星となって地面に流れ落ちた。砕ける岩床。吹き飛ぶ鍾乳石。巨体が舞い上がり、壁に叩きつけられる。その衝撃で洞窟が大きく揺れた。天井に亀裂が走り、砂粒がぱらぱらと振ってきたが、程なくして振動は治まった。
 魔獣は壁際で、横腹を大きく抉られ絶命していた。クロードは岩棚に着地すると、亀裂の入った天井を見た。ボーマンにセリーヌ、仲間たちも集まってくる。
「ちょっと、やりすぎたかな……」
「やりすぎ、だな」
「やりすぎですわね」
 周囲の視線を一身に受けて、クロードは頭を掻いた。
「まあ、なんにせよ、助けてもらったのだから、礼は言わなきゃいけませんわね」
 セリーヌが微笑を浮かべて言った。そのとき、周囲が急に靄《もや》に包まれる。
「な、なんだ?」
 靄はどんどん濃くなり、天井も床も、八人の仲間たち以外には何も見えなくなってしまった。
「どうなったんだ?」
 狼狽《ろうばい》しているうちに、靄はすぐに晴れてきた。しかし、その向こうにぼんやりと見えてきたのは鍾乳石でも岩棚でもなく、全く見知らぬ景色だった。
 洞窟の中にこしらえた宮殿、といったところだろうか。天井に吊り下がったシャンデリア。壁際に明々と灯る燭台。床は色褪せた絨毯が敷かれ、何本もの石柱が整然と並んでいる。その中心に、彼らは立っていた。奥の一段高くなったところには、杯のような形状をした台座が設えてある。台座の両側には、双子の女神像が向かい合って座り、ふたりで何かを受け止めるように片手を差し出している。
〈心あるものよ、よくぞ試練を乗り越えました〉
 美しい女の声が聞こえた。どこから発せられているかわからなかったが、あるいは目の前の女神像が彼らに語りかけているのかもしれない。
〈この宮殿は、勇気の場の真の姿。偽りの勇気を克服し、真の勇気を得し者のみにその姿を現すのです〉
「真の勇気とは、なんだったんですか?」
 レナが、女神像に問いかける。
〈……内面に於《お》いて偽らざる行為、それが真の勇気です。偽りの心を内に秘める者は、たとえ行為が善きものに属していたとしても、真の勇気とは云えません。洞窟が表すもの、それはすなわち自らの内面です。その中での行為は、自らの内面に従って表出した、その人なりの勇気です。内面の勇気を自覚し、偽りの心を克服しようとするとき、真の勇者への道は拓かれるのです〉
「……全然、わかんない……」
 レナは困ってクロードを見、クロードは困ってエルネストを見た。
「つまり、こういうことだろう」
 エルネストは苦笑しつつ、説明する。
「さっきの洞窟は、俺たちをテストするための幻だったのだろう。その中では、我々が隠してきた内面……不審や欺瞞《ぎまん》や妬《ねた》み嫉《そね》み……そんなものが、そのまま行動に表れてしまう」
「じゃあ、みんなバラバラになってしまったのも、僕らの内面のせい?」
「そうだな。普段はこうして統率がとれているように見えても、実はそれぞれ、些細な不満を抱いていたのかもしれんな。あの女神がいう『真の勇気』というのは、内面と合致した行為のことを指すのだろう。だから、少しでも不満を持っていたのに、それを隠していた俺たちの行為は『偽りの勇気』だったわけだ。内面と行為を合致させれば……あの通りだ」
「でも、レナは……」
「ああ。ところがレナは違った。レナだけは最初から『真の勇気』を持っていたんだ。おかげで俺たちは自分の内面を自覚する……内在する不満を知り、正すことができた。レナが、俺たちの内面までも変えてくれたんだ」
「そんな……」
 レナは頬を赤くした。そんな大それた話になるとは思ってもみなかった。
〈さあ、真の勇者よ、ネーデの根源を受け取るがよい〉
 双子の女神像の中心が紅に輝く。光が消えると、その掌には緋色の珠が出現していた。
「そうだ、宝珠を……」
 クロードとレナが台座に上がる。燃え盛るように赫《かがや》く宝珠を眺めているうちに、また、意識が遠のいていった──。


 ……レナ、レナ……。

 あなたは、だれ?

 わたしは、あなたよ。

 あなたは、わたしなの?

 そう。でも、いまのあなたは、わたしじゃない。

 ……なんのこと?

 レナ、あなたは、すべてを捨てる勇気がある?

 捨てる、勇気?

 ネーデ人として、最後の時代の担い手として、すべてを捨てる勇気を、あなたは、もてるかしら?

 どういうこと? すべてを捨てるって、なんなの?

 いいわね、すべてを捨てたとき、あなたは、わたしになれるの。

 待って! わたしに教えて! 捨てる勇気って……。

 ……さようなら……。

 ……行ってしまった。消えてしまった。

 わたしはいつも、ひとりぼっち。

 ──なぜ?

 わたしはすべてが、みんなと違う。

 ──どうして?

 勇気なんて、わたしにはない。いつだって、わたしはなにかに怯えていた。自分自身にさえ。

 ──ひとによっていろんな勇気があっていいんだ。

 クロード、教えて。わたしの勇気って、なんなの?

 ──立ち向かう勇気。

 ちがう。

 ──逃げる勇気。

 そんなんじゃない。

 ──仲良くなる勇気、敵対する勇気、何もしない勇気、真の勇気、偽りの勇気、無謀と勇気は別物。勇気ゆうきユウキ勇──

 やめて! やっぱりわたしには、勇気なんてない!

 ──捨てる、勇気。

 それでも、捨てなくちゃいけないの?

 ……わかった。やってみる。

 わたしはいつも、ひとりぼっち。それなら、捨てることなんて、こわくない。

 さびしくなんて、ないんだから……。


「レナ……?」
 意識が戻ってからも、レナは緋色の宝珠から目を離さなかった。台座の上に、ひとつぶの雫がぽとりと落ちて、乾いた石に吸い込まれる。
「どうかしたの?」
「……ううん、なんでもない」
 少女は宝珠を手にする。その胸にひとつの決意を秘めながら。それが一体なにをもたらすのかを、彼女はまだ、知らない。
「さあ、次の場へ行きましょう」



--
【ひとくち解説】
 何でいきなりマーズの話を持って来ちゃったんだろか……。あのときは話の構成上(というか分量的に)省略せざるを得なかったけど、少し気にかかってはいたんですよね。そこで今回「勇気」というキーワードのもとに、無理やりねじ込んでしまいました。でもやっぱり無理があったかなァ……。
posted by むささび at 16:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説SO2

2008年12月04日

小説 STAR OCEAN 2 〜 ネーデ編 第二章(3)

   3 やさしい、ちから 〜力の場〜

 見渡す限りの荒涼とした大地。茶色の痩《こ》けた地面は、風が撫でるたびに砂埃を舞い上げる。からからに乾いて白っぽくなった大木の幹が、半ば砂に埋もれて横たわっている。
 彼方の地平線に目を向ければ、海の青々とした筋が、まるで地面と空とを分け隔てる境界線のように、横一直線に走っていた。空に垂れこめる濃い雲は、陽の光を洩らす間もなく連なって、物凄《ものすさ》まじい速さで流れている。
 フィーナルとは、最果ての地を意味する。十賢者が元来より恵まれた風土ではないこの地を拠点に選んだのは、ネーデの民の反撃を最小限に留めるため。案の定、北東の辺境にある小都市は、彼らの攻撃の前に為すすべもなく陥落した。その後も、ネーデの各都市はフィーナル奪還に動くこともなく、反撃の気配すらない。唯一、ネーデの外から彼らと共にやってきた、あの人間たちが不穏な動きを見せているという以外には。もっとも、それすらも彼らにとっては、毛筋《けすじ》ほどの憂いの種にもならなかった。
 荒原のただ中に聳《そび》え立つは、混沌とした空間を閉じこめた禍々《まがまが》しき塔。てらてらと黒光りする外壁は、瘴気《しょうき》そのものを塗り込めたよう。窓も階層の継ぎ目も存在せず、ただ地面の入口ばかりが不吉な口をぽっかり開けている。
 ガブリエルは、塔の上空に立っていた。足許には吹きさらしの屋上と、脈打つように翡翠色の輝きを放つ巨大な球体が見下ろせる。風が耳許でごうと唸りをあげて、彼の灼熱するような赤い髪を靡《なび》かせ、乱していく。それでも彼は、邪魔な髪を払いのけもせず、ひたすら、遙かな地平線を眺めやっていた。その瞳に、悲しみとも憐れみともとれる蕩々《とうとう》とした光を閉じ込めて。
 屋上に誰かが立っているのを、ガブリエルは気配で察知した。その場で振り返り、下を向く。女性がひとり、佇んでいた。彼にとって唯一無二の、心を許せる存在。
「フィリアか」
 押し殺した声は、風の音にかき消された。屋上の女性は、両手を前に組んだまま、瞳を閉じてうつむいている。背中まで下ろした薄桃色の髪は、強い風にもいっこうに靡かない。
「今までどこにいた。この星に着くなり抜け出しおって」
 女性からの返答はない。
 ガブリエルがおもむろに腕を持ち上げ、肩と同じ高さで止めた。女性の身体が宙に浮き、するすると彼のところへと上っていく。ガブリエルが引き寄せているのか、女性みずからの意志で近づいているのかは、わからなかった。
 女性は彼の目前まで来て、止まった。女性はゆっくりと頭を擡《もた》げ、初老の男の顔を見る。透き通るような白い肌といい、奥ゆきのある光を湛えた双眸《そうぼう》といい、ゆったりとした薄手の法衣のような身なりといい、女性の容姿はどこまでも透明感で溢れていた。強い日差しを浴びればたちまちかき消えてしまうような──そう、幽霊みたいに。
 そして、こうして向き合ってみると、ふたりはどことなく似ていた。顔立ち、とりわけ哀憐《あいりん》を含んだその瞳は、見つめるほどに生き写しであった。
 ガブリエルの手が伸び、女性の頬を撫でた。目を細めて愛おしい視線を注ぐ彼にも、女性はきっと口を固く結んだまま。
「フィリアよ、もう、どこへも行かないでくれ。私には、おまえが全てなのだ。おまえが傍にいない僅かな一時も、私には堪えがたい苦痛となって、五体を苛《さいな》む」
 顔の輪郭をなぞるように、頬に触れていた指を下に動かす。指先が華奢な顎に触れる。女性は、まるで仮面が張りついたごとく、表情ひとつ変えない。
「綺麗だ……まさしくあいつの忘れ形見、ひとつぶ種。けっして幸福とはいえなかったあいつの分まで、幸せになってほしいと、私は心底願っていた……だのに」
 指先を顎から離すと、ガブリエルはそっと女性を抱き寄せた。薄桃色の髪を撫でながら、彼は耳許に囁く。
「まもなく、全てが終わる。我が復讐は成就せられる。そのときこそ、我らに真の安息が訪れるときだ。だから、それまで辛抱しておくれ」
「おとうさま」
 そのとき、初めて女性が口を開いた。
「わたしには、いまだに解《げ》せません。あなたのお気持ちが。どうしてすべてを滅しようなどとお考えになるのかが。いつ、わたしがそのようなことを望んだというのでしょう? わたしのためだと言うならば、どうか、我が言葉に耳を傾けてくださいまし。どうかお考えを改めて、そのような恐ろしいことなどおやめになって」
 袖にすがって訴える女性に、ガブリエルもいたたまれなくなって、再度、その胸のうちに抱きとめる。
「フィリア、ああフィリア、愛しき娘よ。そうではない、そうではないのだ。私が最も憎むは我自身。滅したいのは私の存在なのだ。妻を亡くし、娘をも見殺しにした罪業は、死をもってしても決して償いきれるものではない。おまえを守ることができなかった惨めな父親を、肉の一片、血の一滴、存在の記録もろとも塵芥《じんかい》さえ残さず消却してやることが、私の望みなのだ」
 女性はガブリエルの胸に泣きつき、何度も首を振る。
「いけません、それはいけません、おとうさま。破壊は何かを生み出す源となります。けれども、消却、消去は何ものをも生み出さないのです。摂理の環は断ち切ろうともまた繋がります。けれども環そのものを消してしまえば、摂理は否定されてしまうのです。どうか、どうか悲しみに我をお忘れになって、取り返しのつかないことをしてくださいますな」
「もう止まらぬ、止まらぬのだよ……」
 父娘は強く抱き合って、悲嘆に暮れた。吹きつける風に赤い髪は大きく靡く。しかし薄桃色の髪だけは、やはり靡かなかった。


 踏みだした片足が、雪の地面に深々と沈む。もう片方の足も持ち上げて雪を踏むと、同じように沈み込む。持ち上げては沈み、持ち上げては沈みを繰り返しながら、雪深い山道を、一歩ずつ登っていく。まっしろな地面に、いくつもの足跡を残しながら。
 力の場は、極寒の地にある雪山であった。まだ雪の浅い麓《ふもと》でサイナードを降りた八人は、次なる『根源』があると思われる、頂上の神殿のような建物を目指して、雪道をひた進んでいた。最初は靴底を湿らす程度だった雪が、登っていくうちに踝《くるぶし》を埋めるくらいになり、中腹までさしかかると膝がすっぽり埋まるほどになった。積雪のせいで歩きにくくはあったが、そのかわり雪は降っていない。到着したときは猛吹雪で、伸ばした手の指先も見えないほど視界が悪かったが、例のナールから譲り受けたルーンコードを掲げた途端に吹雪は止み、先に進めるようになった。つまり、吹雪こそがこの場の『封印』だったのだ。
 一行は無言で山を登っていく。雪は降っていないにせよ山の空気は刺すように冷たく、顔が強張り、耳がツンと痛くなる。彼らはそれぞれ寒さに備えて、いつもより多く着込んではいたが、これほどとは誰もが予想していなかったのだろう。口をきくのも億劫《おっくう》な状態で、彼らはただ、足のみを動かして、緩やかな傾斜を登っていった。
 しばらくすると、横手に、ちょっとした崖のような岩壁が剥きだしになっているところを見つけた。
「ねえ、あれ洞穴じゃない?」
 レナが指さした。岩壁の一部が削られ、ぽっかりと大穴が開いている。形からして、自然にできた穴とは思えない。誰かが刳《く》り抜いたのだろうか。
「ちょっと、入ってみようか」
 雪道に半ばうんざりしていた仲間たちは、クロードの提案にすぐに賛成した。
 洞穴の入り口をくぐり、セリーヌが角灯《ランタン》に火を点けた。常日頃から露出の甚だしい彼女も、さすがに今は分厚い毛皮の外套を纏《まと》っている。おかげで寒くはなさそうだが、山道を歩くにはいささか具合が悪いようだ。灯りのともった角灯をボーマンに渡すと、裾についた雪の粒を払う。
「もっと動きやすい服はなかったのかよ」
「大きなお世話ですわ」
 レナも、いつもの服の上にチョッキを着込み、さらに羅紗地《らしゃじ》のローブめいたコートを羽織っている。コートの裾は臑《すね》までをすっぽり覆ってはいたが、その下は相変わらず膝丈のスカートのままなので、足がすっかり冷えてしまった。しゃがみ込んで、コートの上からごしごしと腿をさする。
 洞窟の内部は、外に比べればずっと暖かかった。その場でしばらく休息をとっていると、次第に言葉数も増えてきた。
「この先って、どこまで続いているんだろうな」
 クロードが壁に手をあてて、奥を眺めている。そこからでは角灯の光も届かず、穴の先は真っ暗闇だった。
「熊でも冬眠しているんじゃありませんの? あんまり奥に行くと危ないですわよ」
「でも、もしかしたら別の場所に通じているかもしれない。うまくすれば近道になるかも……」
 とクロードが言うと、仲間たちは考え込んでしまった。これからまた、雪深い山道を歩くことを思えば、洞窟の中を行ったほうが寒くないし楽かもしれない。口にはしなかったが、皆が皆、そう思い直していた。人間、楽するほうへは簡単に頭が回るものである。
「……まあ、行ってみるだけ行ってみるか」
 エルネストの言葉に、誰も異存はなかった。
 角灯を持ったクロードを先頭に、彼らは洞窟を奥へと進んでいった。明かりを受けた岩壁は鮮やかな群青色に輝いている。何が出てきてもいいように身構えながら、慎重に、歩いていく。
「あら?」
 中ほどを歩いていたオペラが、途中で立ち止まって声を上げた。
「ねえ、ちょっと、ここの壁を照らしてくれない?」
 言われたとおりに、クロードが角灯を掲げて横の壁を照らしてみる。すると、群青色の岩壁一面に、白い大猿の姿が浮かびあがった。
「きゃっ!」
 レナは思わず悲鳴を上げた。だが、よく見るとそれは壁に描かれた絵だった。身の丈も幅も、人間のひとまわり以上はある毛むくじゃらの猿が、手に棒きれを持って何かを追い回している。猿の視線の先へと明かりをずらすと、やはり白い牡鹿が地面を跳ねるように逃げ出している姿が描かれていた。
「壁画、か? でもなんで、こんなところに」
 最初はその大きさと迫力に圧倒されたものの、じっくり眺めてみれば、絵自体はそれほど精巧な出来ではなかった。猿も牡鹿も大まかな特徴のみが強調され、単純化されている。こんな場所に描かれてなければ、誰かが戯れに描いた落書きとしか思えなかっただろう。
「ほう、これは興味深いな」
 だがそこは、考古学者のエルネストである。さっそく大猿の前に立って、白く塗られた部分を指でこすってみる。
「似たような壁画は先史時代のものが頻繁に発見されている。だが、これはそれほど古いものではないな。せいぜいここ数年の間に描かれたものだ」
「どういうことですか?」
 クロードが訊くと、エルネストはこちらを向いた。
「つまり、先史の人類と同等の知能をもった何者かが、今でもこの辺りに住んでいる、ということだな。恐らくは、こいつがご本人なのだろう」
 そう言って手で示したのは、壁画の大猿。
「……雪男」
 レナが呟いた。こどもの頃、ウェスタに聞かされた話の中に、雪山に住む毛むくじゃらの人間の話があった。そのことを、思い出しながら。
「スノーマン?」
「それは雪ダルマ」
 オペラにすかさず突っこまれて、肩を落とすボーマン。
「イエティ、とも言うな。この洞窟も、そいつらが掘ったとすれば合点がいく。どうみても天然の風穴とは思えないからな」
「じゃあ、この先、進んでいくうちにこいつと出くわすかもしれないってことか」
 クロードは、壁画の猿の振り上げた腕の太さを見て、顔をしかめた。
「……用心しないとな」
「あら、大丈夫よ」
 レナがにっこりとして言う。
「雪男はとっても優しいのよ。遭難したミーナちゃんを助けて、ちゃんと村まで送り届けてくれたんだから」
 嬉しそうに話すレナに、クロードは怪訝な顔をする。
「……それ、何の話?」
「『ずんぐり雪男さんとミーナちゃんのぼうけん』」
「…………」
 彼らの間に微妙な空気が流れる。レナは首を傾げた。
「あれ、みんなどうしたの?」
「……じゃ、行こうかぁ」
 気の抜けたような声を上げるクロード。そして頭を掻きながら先へと歩きだす。他の者たちも続いた。
「ねえ、ちょっと待ってよ! 私、なんか変なこと言った?」
 レナばかりが訳もわからぬまま、慌てて彼らを追いかけていった。

 洞窟を抜けた先は、思いがけなく同じ山の裏手に出た。頂上の神殿が、入り口から見たときよりもずっと近づいている。
「どうやら、こっちで正解だったみたいだな」
 クロードがほくそ笑んだそのとき、目の前にいきなり三叉の槍が飛んできた!
「うわっ!」
 すんでのところでクロードは身を屈《かが》めて避ける。槍はずっと先の雪に突き刺さった。周囲を見渡すと、横から背後から淡黄色の甲冑《かっちゅう》に身を包み、三叉槍《さんさやり》を持った兵士のような恰好の魔物どもが、雪をかいてわらわらとこちらに向かってきていた。兜の目庇《まびさし》の奥の眼光は、まるでルビーを填めこんだように赤々と点灯している。友好的な態度にはとても思えない。
「敵か」
 待ちかねていたように、ディアスが柄に手をかける。
「けど、なんだか雪山に似つかわしくない恰好ですねぇ。土着の魔物ではないと思いますが」
 ノエルは手を翳《かざ》してのんびり魔物を眺めやっている。
「異世界の悪魔か亡霊か……どうせ十賢者が呼び寄せたのだろう。全く難儀なことだ」
 エルネストが腰から鞭を取りだし、景気づけに雪の地面を叩いた。白い粉が舞い上がり、それが合図であったかのように戦闘が始まった。
 だが、この雪の中である。敵も味方も降り積もった雪に足をとられ、ろくに移動することもままならない。それならばと、槍を投げつけ、空破斬や気功撃を放ち、跳躍して一気に間合いをつめる方法をとったりもした。けれども、やはり、いまいち盛り上がらない。
「あーもう、見ててイライラしますわね。みんなどいて! わたくしがカタをつけますわ」
 そう言って、セリーヌが詠唱を始めた。クロードがそのことに気づいて振り返ったときには、すでに唱える直前だった。血の気が引くクロード。
「セリーヌさん、待った!」
「イラプション!」
 彼の制止も一足遅く、セリーヌは杖を高々と掲げて唱えた。敵の一群の足許から突如として炎の柱が噴き出し、魔物を天高く吹き飛ばした。逆流する紅の滝の奔流《ほんりゅう》は凄まじく、離れた場所にいてもびりびりと足の裏に振動が伝わってくるほど。
 と、それとは別の、小刻みに震えるような振動を足許に感じた。嫌な予感にクロードは表情を強張らせ、山を見上げる。頂上より手前附近の傾斜一帯に、白い煙のようなものがもくもくと舞い上がっている。煙はみるみるうちに濃くなり、膨れあがって、やがて、ざ、ざざ、ざざざと音を立てて、表層の雪が傾斜を滑りはじめた。
「まずい、雪崩だ!」
 クロードが叫んで、仲間がそれに気づいたときには、すでに雪崩は勢いを増し、斜面をどんどん下って彼らに迫っていた。雪の粒を飛沫のごとく飛び散らせ、物々しい音を轟《とどろ》かせて流れ落ちるさまは、まさに激流だった。
「洞窟に逃げ込め!」
 彼らは雪の中を必死にかき分け、出てきたところの洞穴へと戻っていった。どうにか穴に飛び込んで、ホッとしたのも束の間。外を振り返って、あっと息を呑む。
「レナ!」
 レナだけがまだ穴の外だった。雪深い場所に填《はま》り込み、なかなか前に進めないでいたのだ。雪崩は既に目前まで近づいている。
「レナ、早く!」
 クロードの声も空しく、レナは足をもつれさせて前のめりに倒れてしまう。そこへ怒濤の雪が覆い被さる。彼女の姿は、白い激流に呑まれて完全に見えなくなってしまった。
「くそっ!」
 他の者が制止する間もなく、クロードは自ら激流の中に身を投じた。
「なっ、クロード!」
 彼の姿も一瞬にして雪の中に消え失せる。
「あんのバカ、雪崩の中に飛び込んでいく奴がどこにいる!」
 ボーマンは籠手《こて》をつけた拳を岩壁に叩きつける。未だ治まらない雪崩を、仲間たちは穴の中からただ茫然と眺めるばかりだった。


 視界の端に、ぽっと仄かな明かりが灯った。松明《たいまつ》の炎だ。群青色《ぐんじょういろ》の壁に掛かっている。
 目を覚ましたレナは、ゆっくりと上半身を起こす。そこは洞窟の中だった。彼女がいる場所は、小さな部屋のような袋小路になっている。隣に同じようにして横たわる金髪の少年を見つけると、背中を揺すって起こした。
「クロード、クロード」
「……ん?」
 クロードは目を何度も瞬き、額を押さえながら起き上がった。
「ここは……?」
「わからない……さっきとは別の洞窟だと思うけど」
 洞窟の先に目を向けると、ひときわ明るい隣の岩通路に、何かがもぞもぞと動いているのが見えた。白く大きな、かたまり。
「あ……」
 レナが声を洩らすと、気配に気づいたのか、そのものが振り返った。そして、のっそりと立ち上がり、ふたりのところへ歩み寄ってくる。腫れぼったいように膨らんだ瞼《まぶた》、腸詰めを二本、口の上下にくっつけたような唇。胴にくらべて不釣り合いなほど長い手足。そして、白い毛むくじゃらのからだ。まさしく彼女が話に聞いて思い描いていた、そのままの姿だった。
 大きなからだが目前に立ちはだかると、ふたりをすっぽり覆う影ができた。クロードはとっさに身構えて腰の剣を……と思ったが、そこに剣はなかった。慌てて辺りを見回すと、彼が横になっていたところの枕元に丁寧に置かれていた。すぐに飛びついて剣を抜こうとするも、途中でその手が止まる。ここに剣を置いたのが目の前のこいつであるなら、それを武器だと知りながら、あえて彼は取り上げなかったのだろうか。
「……敵じゃないのか?」
 クロードが刀身を半分だけ抜いたまま当惑する。一方レナはというと、警戒心のかけらも見せず、立ち上がって彼に話しかける。
「あなたが、私たちを助けてくれたの?」
 大猿はレナを見下ろして、わずかに首を傾げた。敵意がないと判断したクロードも、剣を収める。
 そうして、そいつは彼女の前に、手を差し出した。レナの顔の倍ほどもある掌の上には、木を刳《く》り抜いた器が載っていた。
「なに?」
 レナは器を両手で受け取った。中には殻つきの木の実がたくさん入っている。食料の少ない雪山に暮らす彼にとっての、保存食のようなものなのかもしれない。雪男は腕を降ろすと、くるりと踵《きびす》を返して、岩通路の方へ戻っていった。
 レナはクロードと向かい合って岩床に座り直し、前に器を置く。
「食べなさい、って、ことなのかな」
 木の実をひとつ取り出して、殻を割る。
「大丈夫か? そんなもん食べて」
 クロードはまだ不審がっている。
 殻から取り出した実を少しだけ、齧《かじ》ってみた。最初は苦かったが、口に含んでいるうちに甘くなってくる。
「あら、これって……生じゃないわ。炒ってある」
「火は扱えるみたいだから、調理も少しはできるのかもしれないな」
 クロードもようやく木の実に手をつけはじめた。そして、ここは自分が最初に毒味をしてみせた方がよかったかなと、殻をむきながら密かに後悔する。
 さて困ったことに、こういう木の実はあまり旨いものでなくても何故か手が止まらなくなる。しばらくふたりで、無言のまま、ぱりぱりぽりぽりと殻をむいてはひたすら食べた。次第に腹も満ちてくる。
「ありがとう、クロード」
 木の実を取る手を休めて、不意にレナが言った。
「え? 何のこと?」
 爪を立ててパキッと殻を割りながら、クロードが訊く。
「雪崩のとき、私を助けようとしてくれたんでしょ?」
「あ……いや、それは、その……まあ、アレだから」
 返答にならぬ返答をするクロード。そして照れ隠しなのか、むいた木の実を真上に放り投げて口で受け止めようとする。しかし空中で放物線を描いた木の実は、鼻の頭に当たって地面に落ちてしまう。ばつの悪そうに顔をしかめる少年に、レナはくすくすと笑った。
「いや、それよりもだな……早くみんなのところに戻らないと。きっと心配してる」
「ここはどこなのかな。雪男さんに聞けば、わかるかな」
「言葉が聞けたら、ね」
「言葉なんて関係ないよ」
 そう言ってレナは立ち上がると、岩通路のほうへと向かった。
「ちょっと、レナ……」
 クロードも腰を上げて後を追う。そのとき、レナが感嘆の声を上げた。
「わぁ、すごい」
 通路の壁には、隅から隅までぎっしりと、白一色の絵が描かれていた。白い山に白い森。その中を白いウサギが跳びはねて、白い鹿が真っ白な湖の水を飲んでいる。白い鳥は雲の合間を群をなして飛び、白い樹の枝にはちょっこり白いリスが木の実を持ってこちらを向いていた。
 雪男は、壁の隅のほうで新しい絵を描いていた。片手には、石灰石の粉を水で溶いた、どろどろの液の入った器を持っている。これが絵の具なのだろう。レナが近づいて覗き込んでも彼は気にも留めず、指を器に突き入れてたっぷり液をつけると、その指先を壁にこすりつける。
「あれ? これって……」
 レナはその絵を見た。腰より下はまだ描かれていなかったが、それは、人間の絵だった。両腕を前に出して、なにかを抱えているような。
「僕たちを見て、描き始めたのかな」
「そうみたいね……。でも、帰り道を案内してもらおうと思ったけど、邪魔になっちゃうかな」
 これを聞くと──いや、実際に言葉を理解したとは思えないが──雪男は器を床に置き、立ち上がって洞窟の出口へと向かっていく。
「まさか、案内してくれるのか?」
 唖然とするクロードに、レナはさも得意気に笑ってみせた。
「だから言ったでしょ。雪男さんはとっても優しくて、親切なんだから」

 雪男の先導のもと、尾根づたいにしばらく歩いていく。程なくして、雪崩の起きた斜面に戻ることができた。山頂附近から彼らのいる麓まで、巨人がスプーンで抉《えぐ》ったように斜面の雪が削られていた。
 仲間たちもこのあたりを捜索しているに違いない。そう思ってレナは雪男に、もういいよ、ありがとうと礼を言って帰ってもらおうとした。しかし彼は親切なのかお節介なのか、それとも単に自分がそちらに行きたいだけなのか、ひたすら山頂を目指して登っていく。ふたりは仕方なしに、その後をついていった。
 ところが、あるところで、ぴたりと彼が立ち止まった。追い越してしまったレナたちが不思議そうに振り返る。雪男は鼻をぴくぴく膨らませ、いつになく鋭い視線で周囲を見渡している。
 そうして、彼はいきなりクロードの襟《えり》をふんづかまえると、その怪力でもって軽々と持ち上げた。
「な……な!?」
 突然のことにクロードは抵抗する間もなく、彼の頭上で目を白黒させる。腕を大きく振りかぶる雪男。そして思いきり、クロードを雪山の上の方めがけて投げつけてしまった。続いてレナも。
「きゃっ!」
 同じようにして抱えられると、やはり上空に放り出される。何がなんだかわからないまま、ぎゅっと目をつぶって身を固くしていると、どこかに尻餅をついて着地した。どうやら無事に地面に落ちたみたいだが……何か変だ。尻の下が雪の感触とは違うような……。そっと目を開けて、下を見る。すると。
「きゃあっ、クロード大丈夫?」
 うつぶせになったクロードを尻に敷いていた。慌ててそこから降りるレナ。
「へ、平気、平気。軽いから……げふ」
 すっぽり雪に嵌《はま》りこんでいたクロードは、顔を上げると雪の塊を吐いた。
「ったく、いきなり何なんだよ、あいつは……」
 片手で雪の粉を払い落とし、もう片手でレナの乗っかった背中を押さえて立ち上がる。やはり痛かったらしい。
「! クロード、あれ!」
 レナは斜面のずっと下のほうに、雪男の姿を見つけた。だが、彼だけではなかった。みるからに屈強そうな、青い肌の魔物どもが五、六匹。雪男を取り囲んで、近づいてきている。大きさは彼よりも一回り小さいが、盛り上がった筋肉と分厚い胸板、それに血と肉に飢えた凶悪な顔つきは、その魔物の恐ろしさを物語るのに充分だった。
 青い悪魔どもは、無抵抗の雪男に容赦なく襲いかかった。殴りつけて昏倒させ、蹴りとばし、踏みつけ、袋叩きにする。白いからだが雪にまみれて、見えなくなる。赤いものが飛び散ったような気もした。
「助けなきゃ」
 レナが斜面を降りようと足を踏み出す。しかし、クロードが腕を掴《つか》んでそれを引き止めた。
「行っちゃいけない」
「どうして? 雪男さんが……」
「今、僕らだけであれだけの数を相手にするのは無理だ。可哀相だけど……」
「そんな!」
 非難がましく見つめるレナに、彼は吹雪の声で言う。
「山を登ろう。奴らに見つからないうちに、ここを離れるんだ」
「いやよ! 見殺しにできない」
「どうしようもないんだ。さあ、早く」
「やっ……放して!」
 クロードは嫌がるレナの腕を掴んだまま、引きずるようにして斜面を登っていく。腕を振り回し、髪を振り乱して抗うレナ。だが男の力には到底かなわず、雪男と魔物の姿はみるみる遠ざかっていく。
 どれほどの間、登っていったのだろうか。悪魔の姿もとうに見えなくなったところで、クロードがレナの腕を放した。膝に手をついて息を切らすクロード。レナもそこに座りこんで、地面に手をついた。肘のあたりまで雪に沈み込む。
「ひどい、ひどいよ、クロード……。あんなに親切にしてもらったのに……こんなこと、どうして……」
 雪に埋まった手をギュッと握りしめる。冷たさが骨まで凍《し》みた。それ以上に、心の中も。
「助けてくれたのに、助けてくれたのに……」
 クロードは白い息を吐きながら、レナの背中を無言で見つめていた。冷気が頬を撫で、青い髪を微かに揺らす。
「……ごめん」
 不意に、彼が口を開いた。彼女の肩の震えも止まる。
「でも、あの場はああするしかなかったんだ。君をこれ以上、危険な目に遭わせるわけにはいかなかったから。僕は君を守る。何があっても、絶対に。そのためには、君に嫌われたって構わない」
「クロード……?」
 少女の視線に気づいて、顔を赤らめるクロード。そして下を向きながら、続ける。
「辛いのはわかる。悲しいのはわかる。あいつのことを忘れろとは言わない。ただ、今はこらえてほしい。僕らにしても、生き残れるかどうか、ぎりぎりの状況にいるんだ。一刻も早くみんなを捜して、合流しないといけない。……前に進もう、レナ」
「…………」
 レナは雪の上に座り込んだまま、うつむく。クロードの言葉は頭では理解できた。けれども、体は依然として動かない。素直に頷いて立ち上がることができるほどには、まだ吹っ切れていなかった。
 そんな彼女に、クロードはふと表情を崩した。そしていきなり目の前に片膝をつくと、仰々《ぎょうぎょう》しく頭を垂れる。
「姫、しばしの御無礼お許しを」
「え? あっ……やだ、ちょっと……」
 気障《きざ》っぽい台詞に気をとられているうちに、すっかりクロードの背中に担がれてしまった。
「ちょっと、降ろしてよ。恥ずかしい」
 レナは背中で藻掻いた。
「誰も見ちゃいないさ。落ち着くまでそうしているといい。またどこかのお転婆さんに、戻るって駄々をこねられても困るしね」
 揶揄《やゆ》するような彼の言葉に、レナはむっとした。言い返そうと口を開きかけるが、その前にクロードが歩き出してしまったので、代わりに頬を膨らませて肩にしがみつく。
「そういや、雪男だけどさ」
 少しして、クロードが言った。
「本当に優しい奴だったね。レナの言う通りだった」
 レナの瞳がじわりと潤む。それを誤魔化すように、逞《たくま》しい彼の首筋に、そっと、頬を寄せた。

 山を登り始めて、二、三時間は経っただろうか。雪は落ちないがずっと曇っていた空も、いよいよ本格的に暗くなってきた。頂上の神殿が闇に紛れて見えにくくなる。完全に暗くなってしまえば、仲間と合流することも難しくなってしまう。クロードはレナを背負ったまま、歯を食い縛って登り続けた。レナも途中までは自分の足で歩いていたのだが、一時間ほど歩いたところで足が上がらなくなり、結局またクロードの背中を借りることになってしまった。
 クロードは焦っていた。レナも不安でいっぱいだった。山の空気は暗くなるにつれてどんどん冷え込んでいく。こんな風よけもない雪原の真ん中で一晩を過ごせば、次の朝には間違いなく凍え死んでいることだろう。せめて、あの雪崩が起きる前の地点に、洞窟に戻ることができれば。だが、行けども行けども見えてくるのは、雪崩によって削られた雪の斜面ばかり。おまけに暗くなってしまえば、崖に開いた横穴の入り口さえも見過ごしてしまいかねない。汗が全身から噴き出し、頭から湯気が立ちのぼっても、クロードは足を休めることはできなかった。日が落ちる前に。心の中で呪文のように繰り返し呟きながら、震えの止まらない足を、前に繰り出す。
「クロード、もういいよ。私も歩くから、降ろして」
 レナも背中で、彼の限界を感じていた。最初のうちはあれほど躍動感に溢れていた歩みが、今は一歩ごと引っかかるような、変な揺れ方をしているのだ。降りたところで満足に歩けるかどうか自信はなかったが、これ以上彼にすがっていることのほうが辛かった。何度も降ろしてくれるよう懇願するが、クロードは全く聞き入れない。返事をする気力すらなかった。
 もう駄目かもしれない。そう思いかけたそのとき、レナはまさしく神からの慈悲の光を見た。光というにはあまりにもみすぼらしい輝きだったが、今の彼女にとっては何ものにも代えがたい、尊いものに見えたのだ。
「クロード、あれ!」
「え……?」
 斜面の上の方に、ぼんやりとした明かりが灯っていた。それを中心にしてうごめく人影。金茶色の髪をしたもの、派手な毛皮の外套を着たもの、細長い金属の筒を携えたもの。他にも何人かが、こちらに向かって手を振っている。レナは瞳を輝かせて、クロードに言う。
「やったわ、クロード。私たち、助かったのよ!」
「……助かった……?」
 クロードの足が止まった。そして譫言《うわごと》のように呟くと、緊張の糸が切れたのか、レナを担いだまま、ばったりと前のめりに倒れてしまった。
「クロード、ねえ、しっかりして! ……あ、みんな、こっちよ!」


 その日は洞窟で一晩過ごし、あくる日、山登りを再開した。洞窟から頂上までの道のりには大した障害もなく、小一時間ほどで辿り着いた。
 神殿は、大きな広間がひとつあるだけの、ごく単純な建物だった。壁はなく、溝をいくつも彫った柱が床の周囲に整然と並んで、石造りの重そうな屋根を支えている。床と天井はつるつるに磨いた大理石で、濡れた靴で上がると滑りそうになる。
 入り口の門から中に入ると、さっそく大きな鉄の塊が立ちはだかっていた。頭に胴体に両手両足と、一応は人間のような形状を成しているものの、どの部位をとっても無駄に太く、あまり動きやすそうな体型とはいえない。顔の目の部分とおぼしきふたつ穴には黄色い光が点灯し、下顎はだらしなく開きっぱなしだ。鼻やら耳やら髪の毛やら、他の細かい部位はきっぱり、ない。
〈よくぞここまで辿り着いた。これが最後の試練である〉
 鉄の塊が両腕を動かし、声を発した。
〈この先の祭壇には『力の根源』が眠っている。我を倒し、見事手に入れてみるがよい〉
「のぞむところだ」
 剣をすらりと抜き放って、すっかり体調の戻ったクロードが言った。
 先陣をきってクロードとディアスが斬りかかった。だがどちらの刃も、金属の胴体に傷ひとつつけられずに弾かれてしまう。続いてボーマンが懐に潜り込んで顔面に拳を叩きこむ。やはり相手に手応えはなく、むしろ殴った方の腕がじぃんと痺れた。エルネストは鞭に電気を帯びさせて電撃を放ったが、敵は感電はするものの、それで動きが止まるわけでもないようだ。むしろしばらく電気を帯びたままだったので、剣で攻撃するとこちらが感電して、余計に攻撃しづらくなってしまった。それならばとオペラがランチャーを、セリーヌとノエルが同時にエナジーアローを繰り出す。しかしそいつは銃撃も呪紋も全てその身に受けながら、一歩も身動《みじろ》ぎせずに平然と突っ立っている。そうこうしているうちに腕で殴りつけられ、突き飛ばされて、こちらの怪我人は増える一方だ。
「くそっ、やたらと硬いぞ!」
 うろたえる八人を後目《しりめ》に、鉄の塊は黄色の眼光を挑発的に点滅させる。
〈どうした、もう終わりか? この程度で我に挑むとは笑止千万! 力無きものよ、出直して来るがよい〉
「ふん。調子に乗るな、屑鉄が」
 ディアスが前に進み出る。そして相手から離れたところで剣を抜き、掲げるように振り上げた。
「鳳吼破!」
 闘気を込めて振り下ろした剣から真紅の炎が放たれ、天駆ける鳳凰さながらに敵に襲いかかった。腹の部分に食いつき、衝撃で金属の胴体が後ろに突き飛ばされる。けれども、それでもそいつは両足を踏ん張って、攻撃に耐えきった。まさか、と目を見開くディアス。
「おいおい、冗談じゃねぇよ」
 ボーマンがひきつった笑い顔をして言う。
「これだけやって無理なら、もうどうしようもないぜ。ここの試練は諦めるしかねぇのか?」
「いや」
 と、ディアスに代わって前に出たのは、クロード。
「僕が、乗り越えてみせる」
 剣を構え、そっと目を閉じた。息を大きく吸いこみ、吐きだす。もう一度吸いこみ、また吐きだす。仲間たちが見守る中、深呼吸を何度も繰り返して精神を研ぎ澄ませる。閉じた瞼《まぶた》のずっと奥、そこに一条の光が宿る。その刹那、クロードは目をカッと見開いて猛然と駆け出した。
「でぇぇぇりゃあッ!」
 両手で握った剣にありったけの闘気を注ぎ込む。剣が白熱し、燃え立つようなオーラが噴き上がった。クロードは剣を脇に構え、相手の胴を横一文字に薙《な》いだ。きぃん、と、何かが一瞬にして通り過ぎるような、奇妙な音が神殿に響いた。
 クロードが剣を振りきった格好のまま、相手を見る。鉄の塊は、まだ、そこに立っていた。しかし、黄色い目の輝きは、弱まっている。
〈試練は成し遂げられた。力を持つものよ、先に進むがよい〉
 クロードが斬った部分から、胴体の上半分が横にずれ、重々しい音を立てて滑り落ちた。床に転がる上半分と、まだそこに両足を踏ん張って立っている下半分。ものの見事に、まっぷたつになっていた。
「やった……」
 荒々しく息をつきながら、茫然とふたつの塊を見下ろす。それから、自分の剣を。
 剣は、まだ盛んに闘気を放出していた。今の技は一瞬の閃きが生み出した、その場限りの技のはずだった。だが、彼の中に眠る凄まじい力が一気に剣に注ぎ込まれた結果、剣は思いもよらぬ変化をみせた。
『魂』を宿らせることにより持ち主と同調し、内在する力を解放させる。それはまさしく霊剣──オーラブレード──であった。
 クロードがこころを落ち着かせると、剣の闘気も徐々に収束していった。そうか、この剣は自分そのものなんだ。そう思いながら、そっと鞘に収める。
 彼らは神殿の奥へと進み、祭壇に上がった。中心の台にははたして緋色の宝珠《オーブ》があった。
「あ……」
「これは……また……?」
 宝珠を前にして、クロードとレナの意識が遠ざかる。そうして再度、彼らは記憶の海の底へと沈んでいった。


 暗い部屋。ベッドに横たわるお母さん。そして、そばでその顔をじっと見つめてる、私。──この光景は?
 そうだ、これは十年前。お母さんが急に倒れてしまったときのこと。お父さんはクロスに出かけて一週間は帰らない。私はすぐに村長さまのところに行った。村長さまはお医者さんを呼んでくれた。
 お医者さんはとても優しかった。お母さんを診察すると、にっこり笑って私に言う。
「大丈夫。すぐに良くなる。このお薬を飲んでぐっすり休めば、きっと明日には元気になっているよ」
 私は、その言葉を信じた。すっかり安心して、明日のためにたくさんリンゴを買いに行った。お母さんが目を覚ましたら、これでジュースを作ってあげるんだ、って。
 けど、お医者さんは嘘つきだった。
「今夜が峠だな。念のため、教会に連絡を……」
 壁の向こうから、お医者さんが付き添いの女のひとと話しているのが聞こえた。抱えていた紙袋から、買ってきたリンゴがひとつ、こぼれ落ちる。胸がいっぱいになって、紙袋をその場に置いて家を飛び出した。そのまま夜まで帰らなかった。
 ──そして、この晩。
 お母さんは顔じゅうに玉のような汗を浮かべて、うなされていた。私は手拭いで、ていねいに顔を拭ってあげる。青く、やつれた顔を見つめるたび──今夜が峠だ──あの言葉が蘇る。
 私は悔しかった。あんなひとの言うことを信じて、リンゴなんて買いに行ったことが、とっても悔しかった。涙があふれて、ぼろぼろこぼれる。あんな嘘つきなひとたちに、お母さんを任せるしかないの? あんなひどいひとたちが、ほんとうに命を救うことができるの? いやだ、いやだ、お医者さんなんて嫌いだ。あんなひとに、私のお母さんをどうかされたくない。
「おかあさん……いなくなっちゃ、やだよ……」
 大事なだいじな、私のお母さん。救いたい、助けてあげたい。もういちど、あのとびきりの笑顔を私にみせてほしい。力がほしい。今ここで、お母さんを救う力があれば……。
 そのとき、部屋がぼんやりと光りだした。神様が、私のお願いを聞き届けてくれたんだと思った。そうじゃなかったけど……でも、奇蹟は、起きた。

 お母さんは元気になった。私が治癒の能力に気づいたのも、そのときだった。



--
【ひとくち解説】
 オーラブレード、いいですね。カッコいいです。SO1(SFC版)では最強剣だし、小説でも是非とも出したいと思ってました。イメージとしては『幽遊白書』の桑原が使っていた、アレです。
posted by むささび at 19:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説SO2

2008年11月27日

小説 STAR OCEAN 2 〜 ネーデ編 第二章(2)

   2 真空に降る雪 〜ギヴァウェイ〜

 光は、ひとを魅了する。金や銀や宝石などのように、ときにはそれが狂気をもたらしたりもする。一方では、安らぎをあたえる光も存在する。
 この街に満ち溢れる光は清廉の白、純潔の白。古びて朽ちかけた木造の屋根も、いかめしい巨大な棺のような石造りの家も、大通りの地面、脇につらなる樅《もみ》の並木、店先にかかげた色とりどりの看板、なにもかもが冷たい雪に覆われ、ほのかに、それでいて眩しいくらいに輝いている。
 鉛色の空から、大粒の雪がはらはらと落ちてくる。氷の精の息吹のような風に吹かれ、揺すられながら屋根や地面に音もなく降り積もる。家の窓から洩れる暖かなランプの灯り。その壁の近くで、頬を真っ赤にした子供が腰丈くらいの雪玉を、ふうふう白い息を吐きながら転がしている。つきだした屋根の庇《ひさし》には、太いものや細いもの、長いものから途中で折れてしまったものまで、様々な形のつららが不恰好な櫛の歯のように一列に並んでいた。
 雪の降る街、ギヴァウェイ。街に溢れる白は、智を求めるものには真実を、傷を負ったものには癒しを、そして驕《おご》りたかぶるものには警告を与える。すべては虚無である、と。
 通りゆくひとに踏みしめられ、固くなった雪の道を、レナたちはノエルに教えられた通りに進んだ。途中の階段がやたらと滑りやすく何度も転びそうになったが、なんとかかんとか登りきって、目的の家へと辿り着く。
「どちらさまでしょうか」
 扉を開けて応対したのは、か細く消え入りそうな声をした女性。丸眼鏡をかけ、頭の左右には三つ編みにした髪を肩まで垂らしている。背はレナよりも低い。
「あの、ここは、ノエルさんの家ですよね?」
 本人が出るものだとばかり思っていたレナは、少し戸惑いがちに訊いた。
「ええ、そうですが。先生にご用事ですか?」
「あの、私はレナといって……」
 言い終わらぬうちに、女性のほうが声を上げる。
「あ、あなたがレナさんでしたか。失礼しました」
 さっとお辞儀をしてから、しばらくレナの顔を、不思議なものでも見るかのようにじっと眺める。
「……あの?」
 レナが呼びかけると、女性は我に返り、少し顔を赤くしながらまたお辞儀をした。
「すみませんでした。今、先生をお呼びしますから、どうぞ皆さん、あがってお待ちになってください」
 レナたち五人を玄関に招き入れると、彼女はぱたぱた足音を立てて二階へ上がっていった。
 家の中は暖かかった。奥の部屋を覗いてみると、立派な暖炉が柵の向こうで盛んに炎を上げている。家のつくりはどことなく、彼と初めて対面した山小屋に似ていた。玄関にも廊下にも部屋の中にも、飾り気のあるものは何ひとつなく、ともすると殺風景にすら思われる。
「動物学者の家なら、棚や壁に剥製《はくせい》とか飾ってあってもよさそうなのにね」
 オペラは冗談っぽく言ったつもりだったが。
「それは偏見ですねぇ」
 意外にも階段の上から応えるものがあった。
「僕が好きなのは、生きて、動いている動物ですから。剥製は動きませんからね、残念ながら」
 降りてきたのはもちろんノエル。背後には応対に出た女性の姿もあった。
「知の場の試練はどうでしたか」
「ええ。なんだかよくわからないうちに終わっちゃったんですけど、『証』は取ってきました」
「そうですか。何はともあれ無事でよかった」
「セリーヌさんとボーマンさんはどうしてます?」
 レナが訊くと、ノエルはああ、と階段を振り返る。
「二階で休んでますよ。もうかなり体調もよくなっているようだから、大学へも行けるかもしれませんね。……あの、ケルメさん?」
 ノエルは横の女性に呼びかけるが、彼女はぼうっと前を向いたきり、反応を示さない。
「ケルメさん?」
 ノエルが顔をのぞきこんだところで、ようやく気がついてノエルを見た。
「はっ、はい、ノエル先生」
「すみませんが、二階のふたりに、大学へ行くかどうか聞いてきてくれませんかねぇ」
「わかりました」
 ケルメと呼ばれた女性は、今度は静かに階段を上がっていった。
「今の女性は?」
 彼女の姿が見えなくなってから、エルネストがノエルに訊ねる。
「ああ、ケルメさんですか。僕が大学で講師をしていた頃の教え子ですよ。辞めてからもときどき家に来て、こうして身の回りの世話をしてもらっているんです。僕もこういう研究をしているから家にいないことが多くて、彼女のおかげでずいぶんと助かってますよ」
「あらら、それって、もしかして」
 オペラは含み笑いを浮かべた。
「やっぱりどこの星でも、先生を慕う教え子ってのはいるものなのねぇ、エル」
「どこかの教え子は世話なんぞ焼いてくれたこともないがな」
 エルネストが揶揄《やゆ》すると、オペラはむくれた。
「でも、世話してもらっている身ながら言うのもなんですけど、そろそろあの子も身を固めることを考えないといけませんね」
 五人はきょとんとしてノエルを見た。彼は気にもとめず。
「この間、そのことを彼女に聞いたら、笑ってごまかされてしまいましたよ。いちおう真面目な話のつもりだったんですけど」
「ノエルさん、本当にそんなこと聞いたんですか?」
「ええ、そうですけど、どうして?」
 あっけらかんと聞き返すノエル。クロードは苦笑し、オペラはため息をついた。この男の鈍感さの前には、これ以上なにを言っても無駄のようだ。
「……で、僕らに会わせたい人というのは?」
 クロードが本題を切り出す。
「ああ。だから、これから彼に会うために大学へ行こうと思っているんです」
「大学?」
「ええ。ネーデ唯一の公的学術機関、ギヴァウェイ大学です。彼……レイファスはそこの研究室に在籍しているのでね」
「やれやれ……また学者か」
「なんだか妙に縁があるわよね」
 オペラがそう言ったとき、二階から豪快なくしゃみが聞こえた。

「ちょっとボーマン、くしゃみはやめてちょうだい。薬が吹き飛んだらどうしてくれますの」
「悪ぃ悪ぃ。ちっとばかし粉を吸いこんだみたいでな」
 セリーヌとボーマンは二階の一室で、小さな円卓に膝をつめて座っていた。卓の上には薬包紙に載った白やら黒やら茶色やらの粉末が所狭しと置かれている。
「それで、続きは?」
「おうよ。こいつがこの薬の重要ポイントなのよ。よく覚えておけよ。ボーマン様オリジナル『リンガウコギの根の粉末』これを十対二の割合で……」
 ドアがノックされて、三つ編みの女性、ケルメが入ってきた。セリーヌが振り返り、ボーマンは茶色の粉末が載った薬包紙を手にしたまま顔を向ける。
「お連れの方が今、到着されました。これから大学へおいでになるそうですが」
「お、そうか。俺たちも支度したらすぐ行くから、待つように伝えておいてくれ」
「わかりました」
 そう返事して出ていこうとしたケルメだったが、ふと卓の上に並んだ粉末を見つけると。
「なにをしてらしたのですか?」
「んにゃ、ちっと、こいつのために痩せ薬を処方……」
 ばしぃん。すかさずセリーヌの拳がボーマンの顔面に炸裂する。突き飛ばされたボーマンは椅子ごとひっくり返って、背中から床に倒れた。手に持っていた茶色の粉が散らばり、彼にふりかかる。
「患者のプライバシーも守れないなんて、最低の医者ですわね!」
 セリーヌは椅子を倒して立ち上がり、憤慨している。
「女がグーで殴るなよ……ぃえっくしょいっ!」
 粉末を顔に浴びたボーマンは、もう一度くしゃみをした。リンガウコギの粉末が埃のようにもうもうと舞いあがる。
「おふたりとも、仲がいいんですね」
 ケルメがくすくすと笑うと、セリーヌはふてくされた表情のまま彼女を向く。
「この状況で、どうしてそういう結論になるのかしら」
「そうですか? そうやって言いたいことも言えて、ぶつかりあえるって、羨ましいです。ほんとうに」
 ケルメは少し淋しいような笑顔をして言うと、お辞儀をして部屋を出ていった。
「……あの子、わたくしたちのことを誤解しているんじゃないかしら」
 セリーヌが呟く背後で、ボーマンが腰をさすりながら立ちあがる。
「ったく……あーあ、せっかくのリンガウコギが」
 頭を振って粉を落とすと、そのまま扉に向かって歩き出した。
「ちょっと、片づけはどうするんですの」
「どうせすぐ戻ってくるんだから、後でいいさ。お前さんも厚化粧は五分ですませろよ。みんな待ってるんだから」
「大きなお世話ですわ」
 バタンと閉まる扉に、セリーヌは舌をつきだした。それから部屋を振り返って、机の上に散らかった粉末を眺める。
 と、机の下の床に小さな紙きれが落ちているのが目についた。はじめは薬包紙かと思ったが、よく見ると表に細かい字で何かが書かれている。
「ボーマンが落としたのかしら」
 セリーヌはそれを拾い上げた。文字を目で追っていくうちに、セリーヌの表情が険しくなる。
「これは! ……あの男、どうしてこんなものを」
 そして、ひと思いに破り捨てようと手をかけたが。
「……でも、ちょっと面白そうですわね」
 考えを改めて、彼女はその紙をふたつに折ると、携帯用の小さなポーチに入れておいた。

 堅牢な石をいくつも積みあげて築かれた壁を、うっすらと雪化粧が覆う。白亜の城とも見紛うほどのギヴァウェイ大学は、ネーデの悠久の歴史の重みをそのままに表出したような建物だった。
 開け放たれた入口から中へと足を踏み入れると、王宮にでも迷い込んだような錯覚を覚えた。床一面に敷きつめられた赤絨毯、天井から吊り下がった巨大なシャンデリア。ロビーの正面の壁を飾るステンドグラスには、翼を広げた一対の天使が向き合って互いを祝福している宗教画が施されている。廊下を歩いても、緻密に細工された柱や壁に直接彫りこんである天使の彫刻など、荘厳な城内を思い起こさせるものばかりが目につく。教室からどやどやと長衣姿の学生が出てきたところで、ようやくここが大学なんだと確認することができた。
 レナも今は、学生たちと同じ長衣に身を包んでいた。外套がわりにと、ノエルが学生のときに着ていたものを貸してくれたのだ。通りすがる学生と同じ恰好をしている自分に、知らずとこころが弾み、レナは少し照れながらも胸を張って、誇らしげに歩いてみたりもした。憧れの大学、いつかほんとうに、この姿でここを歩くことができたらいいな。少女は思った。
 階段を登って、廊下をさらに進んだ突き当たりに、目的の研究室はあった。
 ノエルが扉を叩き、それから自分で開けて部屋の中へ入る。続いて彼らも入った。
 昼間なのに、研究室はやけに薄暗かった。見ると、窓のある壁面が背の高い書棚で塞がれていて、外からの光をすっかり遮ってしまっているのだ。部屋の隅の机には明かりの点った台も置かれていたが、雑然としているわりに広い部屋を照らすには些《いささ》か乏しい。机は書棚と反対側の壁際を占有しており、そこの最も奥まったところの一角に、この研究室にいたただひとりの男が、椅子に腰かけ机上の箱を見つめていた。
「ノエル君か」
 ノエルが近づくと、男は箱から目を離さずに言った。
「はい」
 部屋の入口で立ちつくしていたレナたちを男の前に招いてから、ノエルは彼を紹介する。
「こちらが歴史学研究室の、レイファス室長です」
 男は手前の操作盤らしきものをポン、と叩いてから、回転椅子をこちらに向ける。机の明かりが彼を正面から照らす。それでようやく、彼の姿をきちんと見ることができた。
 レイファスは、あちこち汚れたり布地がほつれたりしている白衣を平気で纏っていた。額や目尻に刻まれた皺からすると、初老か、もしくはそれよりも上だろうか。やや短めの青い髪は額の中央で分けて、眉間にはつねに皺が寄っていた。ぎょろりと剥《む》いた眼球が鋭く彼らを睨《ね》めつける。髭は蓄《たくわ》えておらず、やつれて骨格の浮き出た輪郭ばかりが目立った。
「レイファスだ。ネーデの歴史を研究している。私に関する情報は、今はそれだけで充分だろう。さて、本題であるが……」
 彼の声は低く、その上早口なので非常に聞き取りづらい。後ろの方でクロードとオペラが、こういう教授は苦手だとか大学にひとりはいるのよねとか、囁きあっている。
「私が現在関わっているのが、旧ネーデの終末期、つまり惑星ネーデ崩壊からエナジーネーデの誕生までだな。そこでの最大の謎が、十賢者に関する記述についてである」
「謎?」
 セリーヌが口を挟む。
「十賢者のどこが謎だというんですの?」
「君たちは市長から十賢者事件の概略は聞いているのだね」
「は、はい。大体のことは」
「ここにこれだけの本がある。全てこの事件について書かれた文献だ」
 レイファスは箱の横に山と積まれた本を指さして言った。そしてその中から一冊を取り出して頁《ページ》を捲《めく》る。
「例えばこの本にはこう記されている。『叛逆を企てし十賢者、軍により漸《ようよ》う鎮圧したり。その罪業、斟酌《しんしゃく》すべき処なし。依《よ》って永劫《えいごう》の時の封印を施し、空の果てに放逐せし』と。他にも、こちらの本にはこうある」
 彼は手に持っていた本を乱暴に机に放ると、また別の本を引っぱりだして広げる。
「『狂信者どもの残虐非道、筆舌に尽くしがたし。子を嬲り、女を淫し、仇為す者は悉《ことごと》く殺戮し、忌まわしき邪教の贄として血と肉を捧げられたり。国軍により収束せられし後も、その被害甚大にして罪人への怒り消えることなく……』……この本も、この本も、どの文献も文体や表現の違いこそあれ、論点は不自然なほどの一致をみている」
 次から次へと本を手にしては机に積み重ねていくレイファス。全部の本を積み終わったときには語気も荒々しくなっていた。
「すなわち十賢者は『悪』であり、終身刑は正当であり、またエナジーネーデへの移住もネーデ人の自戒という形であり画期的であったと評価している。ここにある文献の全てが、だ。……これが何を意味しているか、わかるかね?」
 ほとんど怒鳴るような調子のレイファスに圧倒されて、彼らは何も答えることができなかった。そもそも、どうしてこんなことを自分たちに話すのだろうか。
「情報操作だよ」
 椅子に深々と座り直し、机に肘をつく。神経質そうに指で顎を弄《いじ》りながら、レイファスは続けた。
「時の権力が情報に介入し、彼らに都合のいいように操作する。そうしたときは得てして情報が画一的になるものなのだ」
「つまり、現在知られている十賢者に関する伝承は、全てデタラメであると?」
 エルネストが訊ねる。
「そこまでは言っておらん。現に今、十賢者が現れてネーデを襲っているわけだからな。ネーデに対して敵意を抱いているのは間違いないだろう。だが……どうも引っかかるのだよ。特にこの『エナジーネーデ移住』に関連する記述。あまりにも不自然すぎる。綺麗事すぎる。何か重大な裏が隠されているように思えてならない」
「しかし、それを立証するのは至難の業でしょうな。情報操作以前の文献が一切残されていない上に、三十七億年も前の出来事とあっては」
「確かにな。しかし全く手がかりがないわけではないのだよ。まあ、雲をつかむような話ではあるが……」
 そう言ってレイファスは再び操作盤を叩く。箱に映し出されていた絵が切り替わった。何かの一覧表のようなものが、画面いっぱいを埋めつくしている。
「これは?」
 クロードが興味津々に箱を覗き込む。
「ノースシティの図書館に所蔵されているデータベースだ」
「なんでノースシティにあるものが、ここで見られるんですか?」
「なに、向こうのセキュリティは穴だらけなんでな。簡単なスプーフィングを実行して中から穴をこじ開けてやれば、こうして自由にアクセスすることができる」
「スプーン……なに?」
 レナがクロードの背中をつっついて小声で訊いてみたが、彼は困った顔をして、後で教えるよと応えたきり、また箱に向き直ってしまった。
「大学からハックしてるんですか……。バレたら大事になりませんか?」
「首が跳ぶのは覚悟の上だ。彼と同じように、私も大学には何の未練もないからな」
 レイファスは横目でノエルを見て、ニヤリと笑った。
「図書館の膨大なデータの中で、開かずの扉となっているのが、このファイルだ」
 両手の指を使って巧みに操作盤を叩くと、また箱の画面が切り替わった。真っ黒な画面に『シークレット情報』とあり、その下には『パスワード入力』と小さく表示されている。
「図書館が開設された当初から存在しているファイルらしいのだが、奇妙なことに一度も参照されたことがない。ファイルにもロックがかかっており、パスワードは誰も知らん。それで過去、様々な分野の人間がアクセスを試みたが、いずれも失敗に終わっている。しかし、私はこのデータこそが、十賢者事件の真相の鍵を握っていると考えているのだよ」
「根拠は?」
「過去の解析の結果、このファイルが旧ネーデ軍によって作成されたものであることが判明している。しかも作成されたのはエナジーネーデ移住から間もない時期、つまり十賢者事件の直後だ。軍による機密資料ということであれば、あの事件についての記述があってもおかしくはないだろう。……まあ、希薄な根拠であるのは認めるがね」
 そこまで言ってから、レイファスは嘆息する。
「しかし、流石《さすが》にいささか疲れたね。ファイルの分析だのパスワードの解析だの……いち歴史学者がやるには限界がある。そもそも、こうした作業を頼める専門家がいないのが問題なのだが。この図書館のシステムにしても、構造を理解している者が今のネーデに何人いるのやら」
「システムを理解している人がいないんですか? 管理者は?」
「管理者はマニュアルに従って管理しているに過ぎない。メンテナンスの必要ないシステムだからね。管理するだけなら誰でもできるのだよ。そんな状態だからこそ、こうしていとも容易《たやす》くハッキングできてしまうとも言えるのだが……」
「うーん……」
「どうしたの、クロード?」
 腕を組んで首を捻っているクロードに、オペラが訊ねた。
「いや、そんなに難しいことかなぁ、って……」
「できるのかね?」
 レイファスがぎょろりとした目を動かして、クロードを見る。
「ちょっと、代わってもらえますか?」
「あ、ああ」
 レイファスが席を立ち、そこにクロードか座った。そして箱の前の操作盤を叩き始める。驚いたことに、両手の動きはレイファスよりもはるかに速い。
「クロード、あんた軍の少尉のくせにハッカーだったの?」
 オペラが冗談まじりに訊くと、クロードは横目で軽く睨み返す。
「違いますよ。情報処理技術の講義のときに、ハッカーの手口もシミュレーションを交えて習ったんです。敵の侵入法を知らねば対策もできないってね。……ときには、講義にないようなことも勝手にやってましたけど」
「……なるほど。マニアね」
 クロードの手が操作盤の上で早業のように踊る。同時に箱の画面もめまぐるしく切り替わる。レナは画面の内容もクロードのしていることもちんぷんかんぷんだったので、ただひたすら、彼の横顔を見つめていた。瞳を爛々と輝かせ、表情は躍動感に充ちている。
「ワードリスト発見、と。これでたぶん、何とかなりますよ」
 そう言って、子供のように無邪気な笑顔を見せる。こんなふうに笑うクロードを、今まで見たことがなかった。
「暗号化ツールはありますか?」
「あ、ああ、それなら見つけてある。終末期のネーデ軍が使用していたというものだ」
 レイファスも面食らっているらしく、苦虫をかみつぶしたような顔を引きつらせながら、クロードの横から操作盤を叩く。
「どうも。で、こいつを暗号化して……パスワードと比較するプログラムは……まあいいや、自分で組むか」
 画面に文字と記号と数字とが怒濤の勢いで打ち込まれ、最後に操作盤の大きなキーを軽快に叩くと、クロードは席を立った。
「あとは、処理が完了するのを待つだけです」
「ううむ……見事なものだ。感服したよ」
 レイファスは唸った。相変わらず苦笑しているような表情だったが、喜んではいるようだ。
「これで十賢者の謎が解明されればいいのだが」
「でも、どうして、わざわざ僕たちにこんな話を?」
 クロードが訊ねると、彼は椅子に再び腰かけ、画面を眺めながら。
「うむ。しいて言えば、歴史家としての良心から、かな。……言葉にすると陳腐だな、我ながら」
 皮肉めいた笑みを浮かべるレイファス。そして続けた。初対面のときとは別人かと思えるほど、穏やかな口調だった。
「歴史家というものは、歴史をあらゆる角度から見たがるものなのだよ。ある出来事を誰かは『是』と言い、誰かは『否』と言う。それでいい。それが物事のあるべき姿だ。そこから様々な価値観を蒐集《しゅうしゅう》し、分析して評価を下すのが、歴史家としての仕事なわけだ。だが、こと十賢者に関しては、『否』の記述しか存在しない。これは非常に不自然な状態だ。もし本当に何者かによって別の側面が隠蔽され、それにより十賢者の歴史的評価が歪められたのだとすれば、それはネーデの歴史においての汚点となる。たとえ十賢者の所業が残虐なものであったとしても、意図的な情報操作により正当な評価がなされていないのならば、彼らはうずたかく積み上がった歴史に押し潰された犠牲者とも言えるのだよ」
「歴史の、犠牲者……」
「君たちは十賢者と戦うという。もちろん君たちも、彼らが『絶対悪』であった方が戦いやすいだろう。だが私は、できれば十賢者の全ての側面を知ってもらってから対峙してほしいと願っている。おそらく彼らにも、彼らなりの『正義』はあっただろう。君たちにはそれを理解し、偏見なき眼《まなこ》で真実を見極め、その上で戦いに臨んでもらいたい。それがひとりの歴史家としての、陳腐だが真摯《しんし》なる願いだ」
 そう話し終えると、箱に目を向ける。画面の文字は止まっていた。
「おや、処理が完了したようだな」
 レイファスは処理の内容を確認してから、最初の『シークレット情報』の画面に戻した。クロードたちも固唾《かたず》をのんで見守る。レイファスは慎重に、文字を打ち込んでいく。
「これで……どうだ」
 締めくくりにキーを叩くと、画面が切り替わり、操作もしていないのに文字がどんどん流れていった。
「よし、成功だ!」
 文字は次々と表れては消え、ろくに読んでいる暇もない。模様のように表示された『警告』という単語の羅列。ネーデ軍、十賢者、機密、防衛……すぐに消えてしまう文章を断片的に拾い上げているうちに、突然画面が止まった。そして画面の中央に大きく表示されたのは。
「第一次……十賢者防衛計画?」
 と、途端に文字が消え、別の一文が、そこに流れた。
〈あなたの認証は該当ファイルの参照を許可していません。接続を切断します〉


 光は、ひとをさまざまに照らしあげる。陽気なひとは明るく、淋しいひとはほんのりと、優しいひとは暖かに、哀しいひとは皎々《こうこう》と。その場そのときそのひとのいろいろな光が、夜空にあまねく星のように、きらきらと輝いている。過去も未来も現在も、そのひとのすべてが凝縮されたような、そんな光を、誰もが持っている。きっと、あの十賢者たちさえも。
 ノエルの家では、夕食の準備が進められていた。レナたちとノエル、それにケルメも加えた九人での賑やかな食事だ。暖炉のある大広間に食卓と椅子が運ばれたが、全員が座れるほどの大きさはなかったので、急遽《きゅうきょ》、大皿に盛って各自取りわけるという立食形式をとることにした。
 食事の用意は主にケルメが行っていたが、途中からレナも手伝った。野菜を切り分け、下ごしらえをして、ケルメの手がふさがっているときは調理も任された。ちゃんとした台所で料理をするのは久しぶりで、いつにもまして、楽しかった。
「ああやって料理をする女の子っつーのも可愛いもんだよなぁ、クロード」
 ボーマンが横に立って冷やかしてきたので、クロードは広間と続きになっている台所に向けていた視線を、慌てて窓の外に逸らした。
「君たちは手伝わないの? 同じ女性として」
 広間の長椅子を二人で占有している良家の子女たちは、ボーマンの言葉にそっぽを向く。
「わたくしたちは客なんだから、余計なお節介を焼く必要なんてありませんわ」
「エルぅ、あたしの料理、食べてみたい?」
 オペラが呼びかけると、エルネストはとんでもない、というふうに慌てて首を振った。どうやら苦い経験があるようだ。
「ねぇディアス、こっちはどう?」
 不意に、台所のレナから意外な名前が飛びだした。
「なに?」
「ディアスが?」
「台所に?」
 ボーマンとセリーヌ、それにクロードが台所に忍び寄り、そっと覗き見る。
「……塩味が濃いな。蓋をしてもう少し煮込めば野菜の水分が出て、味も調ってくるだろう」
 ポトフの鍋の前には、三角巾を頭に巻き、花柄のエプロンを着込んだディアスが立っていた。小皿に移したスープの味見をし、事細かにアドバイスまでしている。
「……なんですの、この光景は」
「まさかあいつ、料理できるのか?」
「いや、味見専門ってとこじゃないか。けっこう味にはうるさそうだし」
 なんだか恐ろしいものでも見たような気分になりながら、三人は広間に戻っていった。
 窓の外は雪が降り続いていた。日はとっぷり暮れてしまったが、屋根や地面に積もった雪のおかげでわりと明るい。夜の街を舞うたくさんの白い、雪、雪、雪──静かに降り続け、積もっていく。
「さあ、できたわよ。みんな集まって」
 レナが大鍋を食卓の中央にでんと置いた。肉料理とサラダも大皿に盛りつけられ、焼きたてのパンはバスケットに山と積まれる。
 ノエルがワインとシャンパンの瓶を手にやって来た。栓が開けられ、なみなみとグラスに注がれる。
「みんな渡りましたね」
 ノエルが言うと、全員がグラスを掲げた。
「それじゃあ──」
「メリークリスマス!」
「違うわよっ」
 オペラに頭をどつかれ、項垂《うなだ》れるボーマン。
「……ええと、今日は特別な日というわけではないですけど」
 ノエルが仕切り直す。
「せっかくの骨休めの機会ですから、今夜は我が家で気兼ねなくくつろいでください。それでは……乾杯」
 グラスが交わされ、賑やかな食事が始まった。

「このへんのお皿、向こうに持っていきますね」
「あ……はい。すみません、レナさん」
 レナは空になった大皿と机に散乱していた小皿を積み重ねて、台所に運んでいった。ケルメも手伝おうとしたが、途中でノエルに呼ばれてそちらへ行った。
 片づけを済ませて、レナは広間へ戻った。食事の終わった広間には、ゆったりとした時間が流れていた。
 ──ああ、なんかいいな。レナは今、この場所にいることを、この上なく幸せに感じた。暖かい部屋、ゆったりと流れる時間。アーリアにいた頃は、こういう時間がずっと続いていたっけ。ちいさな村での何気ない生活が、ひどく懐かしい。……でも、もう、戻ってこない。
 心臓がどくりと鳴る。戻ってこない? どうしてそんなことを思ってしまったのだろう。まとわりつく嫌な思いを振り払うように、レナは何度も頭を振った。
 そして、部屋を見渡す。もはや気心しれた仲間たちの飾り気のない姿が、そこにあった。大あくびをするセリーヌ、不敵な笑顔を浮かべるボーマン、上品にグラスを傾けるオペラ、うまそうに煙草をふかすエルネスト、窓の前に立って一心に空を眺めているディアス、空になったグラスをケルメに注ぎたしてもらっているノエル、微笑を洩らしながら話を聞くクロード……ああ、このひとたちとなら、安心できる。レナは瞳を細めた。
「けど、結局十賢者のことはわからずじまいだったわね」
 オペラは手に持っていたグラスの中身を飲み干してから、昼間のことを振り返る。
「まさかパスワード認証の後に抗生プログラムを仕込ませてあるとはね」
 クロードは苦々しく言ったが、どこか嬉しそうでもあった。
「まあ、守護者《ガーディアン》に関しては、博士がこれから対策を講じるらしいから、進展があるまで待つことにしましょう」
 ノエルはそう言って席を立ち、グラスを机の上に置いた。
「それじゃあ、僕はお先に休ませてもらいます。明日は力の場でしたよね?」
「ええ、ここから近いらしいですから……ノエルさんも行くんですか?」
「もちろん同行しますよ。雪山だから、みんなも防寒の用意だけは忘れずにね。……じゃあ、ケルメさん、あとはお願いします」
「はい先生。お休みなさい」
 盆を抱えたケルメが、三つ編みを揺らしてぴょこんとお辞儀をする。ノエルはお休み、と返事をして、それから広間を出ていった。
「……どうしてあのひとは、わたくしたちについてくるのかしら」
 彼が退室した後で、セリーヌが呟いた。
「どうしてって、サイナードのことがあるからでしょう」
「それだけなら、別にわざわざ危険な場所にまで一緒に行く必要はありませんわ。他に理由があるんじゃないかしら」
「先生は、レナさんのことを見届ける気でいるんです」
 突然、ケルメが会話に入ってきた。驚く彼らを後目《しりめ》に、淡々と話を続ける。
「今朝、ここに戻られたとき、先生は私に言ったんです。動物と本当の意味でこころを通わせることのできる女の子がいる。彼女は優しさという力でサイナードの習性までも覆してしまった、って。そう話す先生の顔は、素晴らしい発見でもしたときのように輝いていました」
 言葉の奥に宿るかすかな皮肉を感じながら、彼らは無言で話を聞いた。卓に置かれた空のグラスを盆に載せていくケルメ。その顔には、笑みがこぼれていた。
「先生は、悔しかったんだと思います。でも、それ以上に嬉しかったんだと思います。レナさんを見て、知識に邪魔されて動物のことをちゃんと考えてなかった自分に気づけたから。自分には何が足りないのか、それを確かめるために、先生はレナさんについていくんです」
「ケルメさん、あの……」
 レナは思わず何か言おうと口を開いてしまったが、その先の言葉が見つからない。
「それでは、私は向こうで片づけしてますので。お休みのときは声をかけてください」
 ケルメは軽く会釈すると、グラスを載せた盆を抱えて台所に下がっていった。
「なんだか複雑ねぇ。色々と」
 長椅子の肘掛けに頬杖をつきながら、オペラが鼻でため息をつく。レナはケルメの姿を最後まで見ることができずに、唇を噛んで、下を向いた。



--
【ひとくち解説】
 個人的にはお気に入りの回。このあたりになると、今読んでも納得いくようなものが書けているんじゃないかと思います。修正も結構入れてますけどね。レイファスのセリフとか。
posted by むささび at 15:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説SO2

2008年11月20日

小説 STAR OCEAN 2 〜 ネーデ編 第二章(1)

第二章 追究


   1 哀憐の覚知 〜知の場〜

 銃身の上部にある挿入口《スロット》に方形のエネルギーパックを差し込むと、オペラは手の甲で汗を拭い、ふうと息をついてから天を振り仰いだ。
 雲間から臨める空はやや白んで、一面に水を張ったように透き通っていた。そこに鏤めたように広がるのは、風にたなびくちぎれ雲。
 この世界がことごとく作り物というのなら、見るから機能に乏しいこの雲は、ひとの情緒とか興趣に依拠してのみ存在を許されているのだろうか。超高度文明という割に(彼女から見て)無駄の多いこの星ではあり得る話だと、彼女は心の中で首肯した。
 ホテルが隣接する広場の芝生の上にオペラはどっかり座り込んで、銃の最終調整をしていた。エルネストの嫌々ながら献身的な手伝いの甲斐もあって、ほぼ満足のいく仕上がりになった。
「ねえ、エル……」
 オペラが振り向くと、そのエルネストはベンチで横になり、うたた寝をしていた。両手を重ねて頭に敷き、天に向かって口を開けながら太平楽に鼾をかいている。
 オペラは少しムッとして、それから立ち上がって彼の前に歩み寄る。両手を腰にあててどうしてやろうか思索していると、彼の頭の先に果物の入った籠の置いてあるのが目についた。オペラはその中から真っ赤に熟れたリンゴを無雑作につかみ取ると、エルネストの半開きになった口の上に置いた。それでも彼が起き出さないのを視認してから、彼女はそっと離れて銃を持ち出し、あろうことか彼に向かって構えた。口の上の赤い標的に狙いをすませて、なんの躊躇もなく引き金を引く。
 光の尾を曳きながら放たれた銃弾は手もなくリンゴを撃ち抜き、破裂するように粉々に砕け散った。
「────!?」
 降りかかるリンゴの破片を顔に浴びて、さしものエルネストもみっつの目を剥き青ざめている。
「どう、お目覚めは?」
 にこやかに微笑して、オペラが訊く。その笑顔が余計に恐い。
「……甘酸っぱいな」
 エルネストは渋い表情でそう応えると、口をもごもごさせる。リンゴの破片がいくらか口に入ったらしい。
「お前は俺を殺す気か」
 ようやく平静を取り戻したエルネストは、ベンチに座り直してひどく疲れたように項垂れる。
「なによ、あたしの腕が信用できないっていうの」
「そういう問題じゃなくてな……」
「呑気に寝ているあなたが悪いんでしょ」
 そう言ってそっぽを向くオペラに、エルネストも諦めて吐息を洩らした。
 と、空を眺めていたオペラがなにかを見つけたように目を瞬かせる。
「ねえ、あれ……」
 彼女が指さした先、何かが空のただ中に浮かんでいた。いや、左右に揺れながら、こちらに飛んできているのか。鳥にしてはかたちも大きさもまったく異なる。エルネストとふたりで突っ立ったまま刮目していると、それが青い頭の生物で透明な翅を持っていること、そしてその背に誰かが乗っていることがわかった。陽の光に照らされた黄金色の髪が風に揺れている。
「おい、もしかしてクロードたちじゃないのか」
「え? それじゃ、あれが」
 話している間にもそれは近づいてきている。右へ行ったり左へ行ったり、上昇したと思えば急下降したりと、優雅な空の旅というわけではなさそうだ。必死にしがみついているだろうその背中から数名こぼれ落ちはしないかと、見ているこちらがハラハラしたほどである。
 ホテルの焦茶の建物に影を投げかけて、ついに広場の上空まで来た。すると青い頭の生物はいきなり下降を始めて、芝生の上にほとんど垂直に降り立った。地面を揺るがすほどの乱暴な着地にも生物は澄まし顔で、めり込んだ前脚を持ち上げて抜いている。
「おかえり。ずいぶん遅かったのね」
 背中に乗っていたのはやはりクロードたちだった。オペラが歩み寄ると、クロードは背中の上で貌を上げる。
「ああ、オペラさん、エルネストさんも……」
 そう言うクロードは心なしか、やつれているようにも見える。さんざん振り回されたせいで金髪は大きく乱れていた。
「それがサイナードなのか?」
「ええ。手に入れるのに少し手間取りましたけど」
 クロードは生物の背中から飛び降りて、続いて降りようとするレナに手を貸している。反対側ではすでにディアスと、見知らぬ男が降り立っていた。ボーマンとセリーヌは背中の上で、仲良く並んで突っ伏したまま動こうともしない。
「なんだかみんな、お疲れのようね。そんなにハードな飛行だったの」
「それもあるんですけど、まあ、他にもいろいろあったので……」
 クロードはレナを伴ってサイナードの正面に回った。オペラたちやディアスもそこへ集まる。
「ところで、彼は?」
 ディアスの後についてやってきた男を示して、エルネストが訊ねる。
「あ、動物学者のノエルさん。サイナード入手に協力してもらったんです」
「どうも、ノエル・チャンドラーです」
 ノエルは丁寧にお辞儀をして挨拶する。
「学者の方でいらしたか。これは失敬、私も考古学まがいのことを生業《なりわい》としております。機会があれば一度ゆっくりとお話したいですな」
「ええ、僕でよければ、ぜひ」
 学者同士の会話が続くなか、クロードはまだサイナードの背中でぐったりしているふたりに呼びかけていた。
「ボーマンさん、セリーヌさ〜ん、今からナールさんのところに行きたいんですけど……」
 返事がない。ただのしかばね……ではなく、ほとんど屍のように両手両足を投げだして俯せになっている。応答する素振りさえ見せないふたりにクロードはため息をつくと、仕方なく。
「じゃあ、僕らだけで行ってきますから、先にホテルに戻っていてください」
 そう言うと、ようやくボーマンの手が持ち上がって、うるさそうに手を振った。了解、という合図なのだろう。
「そういえば、ノエルさんはどうするんですか?」
 サイナードの鼻を撫でていたレナが、背後のノエルを振り返って。
「僕も市長に用事があるから、ご一緒させていただくよ」
「用事?」
 ノエルはそれには応えずに、またエルネストとの会話に戻ってしまう。レナは首を傾げた。
「それじゃあ、行こうか」
 サイナードの背にふたりを残して、彼らはシティホールへと向かった。

「どうやら無事にサイナードを入手できたようですな」
 秘書の案内で市長室に通された一行は、ナールに出迎えられる。
「しかし、そうのんびりとしてもいられません。こうしている間にも十賢者は着々と計画を進行しているはずです。あなた方には一刻も早く、ネーデの力の根源を身につけていただかなければ」
「力の、根源?」
「そうです。ネーデの力の根源、すなわち紋章術の真理を悟っていただきたい。あなた方の異質な力に我々ネーデ人が持つ力を加えた、まったく新しい力。それをもってしてより他に十賢者を倒す術はないでしょう」
「で、具体的には何をすればいいのだ?」
 エルネストが訊くとナールは心得たように頷き、それから机の前に立って例の箱のような装置を操作し始めた。たちまち目の前に紺碧の海が、隆々とした山並みが、ひとところに密集した建物群が、遙か上空から見下ろしたように広がった。目を凝らすと海岸に打ち寄せる白波や山を覆う樹木の一本一本、さらには建物の内側で暮らす人々の息づかいまでもが感じられるような、そんな気すら覚えた。
「今、あなた方の脳裏に映っているのはネーデの世界地図です。南西の島の隅にあるのが私たちのいるセントラルシティです」
 そこに神経を集中させるとなるほど、林立する四角い建物の並びに見覚えのある焦茶のホテルがあった。そう感じているだけかもしれないが。
「ここエナジーネーデの各地には、『場《フィールド》』と呼ばれる場所が存在します。そこにはかつてのネーデが犯した過ちを戒めるために、その業《ごう》ともいうべき力の根源が封印されているのです」
「力の、根源……」
「ええ。ネーデがネーデであるために必要な力。しかし、現在のネーデが喪《うしな》った力でもあります」
 まるで謎かけのような言い回しだった。何かを隠すために、わざとはぐらかした言葉を選んでいるようにも感じた。
「まあ、端的に『パワースポット』のようなものだと思っていただければ、わかりやすいでしょう。『場』は全部で四箇所。それぞれに厳しい試練が待ち構えており、それを乗り越えた者にのみ、場に封じられた力を手にすることができると伝えられています」
 にわかに地図上の四つの地点が輝きだした。それはまさしく『場』の位置を示しているものだった。
「場所はセントラルシティを中心として、北に知の場、北西に力の場、南東に勇気の場、そして北東の上空に愛の場があります」
 知の場は五角形の島の中心にある祠。
 力の場は雪深い山の頂。
 勇気の場は岩山の中腹をぱっくりと裂いたような洞穴。
 愛の場は雲間を漂う浮遊島。
 彼らはそれぞれの場の位置と外観を、頭ではなくその身でじかに把握することができた。まるで魂だけが抜け出てその場所を一通り巡回してから、再びからだに戻ってきたような、そんな感覚だった。
 不意に地図が消えて、目の前は元のように市長室の光景になった。ナールが装置を解除したらしい。
「要するに、あたしたちにそこへ行って、試練を受けてこいってことなのかしら」
「その通りです」
 オペラの言葉にナールはきっぱりと応えた。そうして机の引き出しからなにかを取り出すと、クロードに手渡した。
 それは掌ほどの大きさの、四角い鈍色《にびいろ》の板だった。表面には緋色《ひいろ》のインクで緻密な紋章が描かれている。
「これは?」
「四つの場は悪用されないために、通常はその機能を封印してあります。そのルーンコードはそれを解くのに必要なのです」
 ナールはそこまで言ってから、思い出したようにつけ加える。
「試練の後に証として宝珠《オーブ》がもらえるはずですから、それも忘れずに取っておいてください」
「どんな試練なんですか?」
「試練は受ける人によって異なります。それ以上のことは私にも……」
「……そうですか」
 クロードは嘆息した。どうもこの人の腹の内は読みにくい。少なくとも自分たちに害をなす人間ではないとは、思うのだけれども……。
「ちょっといいかな?」
 横を向くと、それまで背後に控えていたノエルが前に出てきていた。
「お目にかかるのは初めてですね、市長」
 のんびりとした口調で挨拶するノエルに、ナールは目を丸くした。
「失礼だが、貴方は……」
「稀少動物保護地域を管理しているノエル・チャンドラーです。定期報告は毎月そちらにも送られていると思いますが」
「ああ、貴方がノエル博士ですか。貴重な報告はいつも拝見していますよ」
 ナールはそこまで笑顔で言うと、それから首を傾げる。
「して、今日はどのようなご用向きで?」
「はい。実はですね、僕も彼らに同行しようと思いまして。それで、いちおう市長にもそのことをお伝えしておこうかと」
「ノエルさん!?」
 クロードが彼の顔を見る。一行にとっても、それは初耳だった。
「迷惑はかけないつもりだよ」
「そういうことじゃなくて……どうしてですか?」
「サイナードだよ」
 唖然とするクロードに、彼は淡々と説明する。
「サイナードも生物なんだ。いったい誰が世話をするつもりなんだい? かれが何を食べるのか知ってるかい? 寝床も適当な場所を見つけてやらないと、すぐに弱って死んでしまうよ。ああ見えても繊細な動物だからね」
「それは……」
「自分で言うのもなんだけど、こういうのは専門家に任せるのが得策だと思うよ。危険は承知の上だ。僕だって呪紋はそれなりに扱える。戦力になるかはわからないけど、少なくとも自分の身くらいは守れる」
「でも……」
 彼らが口ごもっていると、それまで見守っていたナールがおもむろに口を開いた。
「……そうですな。確かに、その方が良いかもしれません。ノエル博士は野生動物の専門家です。これ以上の適任者はおりますまい」
「ナールさんまで……」
 クロードはもう一度ノエルの顔をじっと見て、それからふう、とため息をついた。
「……わかりました」
 一見すると惚《とぼ》けたようなノエルの表情ではあったが、そこにはきっぱりと、揺るぎない決意が張りついていた。
 たぶん、サイナードのことだけじゃないんだろう。クロードも漠然と感じてはいた。彼を突き動かしているのは、恐らく──。
 ──炎に照らされた横顔。
 昨夜のあの出来事が、彼にひとつの思いを喚起させたのかもしれない。そしてそれは、かつて彼の友人が歩んだ道と繋がる。……そう、彼も今、策ではなく行動を選択しようとしているのだと。
「サイナードのことはお任せします。……いや、それよりも」
 クロードは少し困ったように笑って。
「仲間として歓迎しますよ、ノエルさん」
「ありがとう」
 ノエルは細い眼《まなこ》をさらに細める。
「では、これからもよろしく」
「ええ。よろしくお願いします。」
 ふたりは再度、握手を交わした。

 ホテル『ブランディワイン』での彼らの部屋は、ひとりでは持て余してしまうほど広かった。市長が気を利かせてスイートルームを用意してくれたらしく、個室ながらリビングと寝室の続き部屋となっている。リビングは硝子板の机と柔らかいソファが中央を占め、隅の棚の上にはガーベラの一輪挿しも活けてある。南側の壁は全面硝子張りだが、日が落ちて部屋の照明が点いている今の時分は臙脂《えんじ》のカーテンがかかっている。隣の寝室には鏡台とベッドがひとつきり置いてあり、ランプの仄かな光を受けて淡黄色のシーツが暖かみのある色彩を醸していた。それでもレナなどは、あまりの部屋の広さに落ち着けずに、最初に泊まった夜はろくに眠れなかったりもした。
「……とまあ、そういうわけで、四つの『場』ってところへ行くことになったのだけど。明日はとりあえず、知の場へ行こうと思う」
 セリーヌの部屋には全員が集まっていた。ナールの話を聞いていないセリーヌとボーマンのために、クロードが話をかいつまんで説明している。もっとも、部屋の主はベッドで枕に頭を埋めるようにして横になったままなので、はたしてクロードの話を聞いているかどうかは定かでない。ボーマンもソファに座って話に応じてはいるが、背もたれに寄りかかって手で顔を覆い、指の隙間から天井を眺めている。かなり辛そうだ。
 レナとノエル、それにオペラはソファに腰かけ、エルネストはオペラの脇に立っている。ディアスはリビングを支える柱を背にして、カーテンの閉められた窓の方を向いている。クロードだけは、セリーヌに話が聞こえるよう寝室の入口の手前にいた。
 反応がないのが気になって、クロードはそっとベッドのセリーヌを覗き込んでみる。
「あの……聞いてますか、セリーヌさん?」
 途端に枕が飛んできた。クロードは顔面で受け止める。
 セリーヌは恨めしそうにこちらを睨んでいた。藤色の髪はぼさぼさで、腫れぼったい両眼には隈が浮いている。
「レディーの寝顔をのぞくなんて最ッ低ですわね」
 嗄《か》れ声で言うと、再びベッドに沈み込んで反対側に寝返りをうつ。
「明日は無理ですわ。貴方たちだけで行ってきてくださいな」
 背を向けたままそう言うので、クロードはそっと枕を返すと、忍び足で寝室から引き下がった。
「俺も明日はパスだ。一日休ませてくれ」
 ボーマンが寝言のようなおぼつかない声で言った。
「そうですか……ノエルさんは?」
 クロードはボーマンの隣にいるノエルに訊く。
「僕ですか? 僕は平気だけど、先に今の仕事の整理をしなければならないから、明日はギヴァウェイに行ってますよ」
「ギヴァウェイ?」
「ええ、僕の実家があるんです。……ああ、そうだ。ついでに君たちに会わせたい人がいるから、知の場での用事が終わったら、こちらへ寄ってもらえないかな」
「会わせたい人?」
「ええ。十賢者研究の第一人者で、君たちにぜひとも話を聞いてほしいそうだよ。確証はないけど、なにか重要な情報があるのかもしれない。ギヴァウェイは知の場からすぐ西の島だから、セントラルシティに戻るよりも近いよ」
「そうですか……わかりました」
 いささか疑問がないわけではなかったが、十賢者の情報と聞いては断るわけにもいかない。それに、セントラルシティよりも近いのなら、休息にはむしろ好都合だろう。
「じゃあ、もしセリーヌさんとボーマンさんが動けるようだったら、ふたりも連れて行ってくれませんか。僕たちも後から合流しますので」
「わかりました」
 ノエルの返事を聞いてから、クロードは向かい側の一人掛けのソファで船を漕いでいるレナに視線を移した。
「そういや、レナは大丈夫なのかい?」
「えっ?」
 微睡《まどろ》みのうちに話を聞いていたレナは、急に名前を呼ばれて、はっとクロードを見る。
「疲れているなら明日は休んでも構わないんだよ」
「あ……だいじょうぶよ。このぐらいの疲れなんか、一晩寝ればふっ飛ぶから」
 そう言って立ち上がると、大きく伸びをしてみせる。
「それに、私がいないとサイナードに乗っていくこともできないでしょ?」
「あ……そうか」
 クロードは頭を掻いた。サイナードは主人であるレナの言うこと以外には耳を貸さないのだ。
「それなら仕方ないけど……もし辛かったらいつでも僕に言うようにね」
「だから大丈夫だって。変に心配してくれる方が気持ち悪いわ」
 レナはそう笑い飛ばした。少しわざとらしかったかもしれないな、と心の中では思った。
 実際のところ彼女も、ボーマンたちと同様にひどく疲れていた。身体は鉛のように重く、頭は今にも睡魔に支配されそうなのを必死で堪えている。それでも、この少女は健気にも、あえて元気に振る舞ってみせている。それはひとえに、彼のためだった。
(だって、クロードに迷惑をかけさせたくないもの)
 クロードには、自分のことを嫌いになってほしくない。我儘《わがまま》だと思われたくない。──だから。
(……でも)
 でも、もしここで疲れていることを打ち明けたら、彼は気遣いの言葉をかけてくれるだろうか。ひょっとしたら、今よりもずっと優しく接してくれるかもしれない。そう思うと、決して甘えることのできない自分がもどかしく、歯がゆくもあった。


 知の場だと教えられた五角形島の祠《ほこら》の内部は、小さな部屋がひとつあるのみだった。正面に一枚、その左右の壁に一枚ずつ、合わせて三枚の姿見《すがたみ》が掛かっている。けれども。
「この部屋って、なんか変じゃないか?」
 隅々まで歩き回ってから、クロードが首を捻る。レナもなんとなく違和感はあった。部屋全体の中で、どこか調和のとれていない部分があるような。
「……俺たちの姿が映ってないな」
 エルネストが気づいた。全員が正面の姿見の前に集まる。
 違和感はこのせいだったのだろう、鏡には目前に立っている彼らの姿がなかった。そこに映じているのは彼らでも彼らのいる小部屋でもなく、通路のような床が断片的に浮かんでいる不可思議な空間だった。
「鏡じゃ、ないのか?」
 クロードが拳でコンコンと叩いてみたが、やはり鏡面には違いないようだ。
「そういえば、市長が封印がどうのって言っていたわね」
「ああ、そういえば」
 オペラに言われて、クロードはポケットから鈍色の板を取り出した。いつの間にか緋色の紋章が脈打つように赫《かがや》いていた。
 掌に載せてしばらく眺めていると、表面から光の粒が浮き上がり、すぐに三つに分裂してそれぞれの鏡に向かっていく。光が鏡に到達すると、鏡面は軟らかいもののように大きく波打った。反応は一瞬で収束し、光は鏡に吸い込まれて消えた。鏡は以前と変わらぬ姿で目の前に鎮座している。
「どうなったんだ?」
 クロードがもう一度鏡に手を伸ばすと、指先が触れた一点から鏡面に波紋が広がる。そして、指はなんの抵抗もなく鏡をすり抜けた。
「! ……もしかして」
 クロードは顔を鏡に近づけてみた。鼻の先が鏡面に触れても、接触している感覚がない。そのまま頭をゆっくり突き出すと、するすると首まで鏡の向こうに潜り込んでしまった。
「ちょっ……クロード、大丈夫?」
 いったん頭を出して振り返ると、クロードは悪戯っぽく笑った。
「入れますよ、ここ」
「は?」
 呆気にとられる仲間たちを尻目に、クロードは勢いをつけて鏡の向こうに飛び込んだ。彼の身体はすっかり鏡の中に入り込み、鏡は波紋を残しつつも奇妙な空間に佇む金髪の少年の姿を映し出していた。
「うそ」
「ほう、面白い仕掛けだな」
 鏡のクロードはこちらを向いて何やら話しかけているが、声は届かない。
「どうやら音は遮断されているようだな」
「クロード、何も聞こえないわよ! ……って、あっちも聞こえないのか」
 向こうもそのことに気づいたらしく、口を動かすのをやめて手招きをしている。どうやらこっちへ来いと言いたかったようだ。
 そうして彼らもおっかなびっくり、鏡の向こうへと足を踏み入れる。オペラに促されて鏡を潜ると、レナはその不思議な世界を見回してみた。
 そこは鏡の外から見た通り、果てなき空間が延々と続いていた。彼らが立っているのはちょうど先程の小部屋くらいの床で、周囲の迷路のように曲がりくねった床板とは完全に切り離されている。こちらの床とまわりの床の間には仕切も柱もなく、床板自体もそれを支えるような土台は見あたらない。薄暗い空間のただ中に白い床だけが宙ぶらりんの状態で浮かんでいるという、非常に奇妙な、そして危なっかしい世界だった。
「これが知の場の本当の姿なのか」
「あれは何かしら?」
 空間を隔てた先の床には、円形の台に飾られるようにして透明な球が置いてあった。まわりを見回すと別の場所にも同じものがいくつかあり、彼らのいる床板を中心として計六つ、ぐるりと囲むように設置されていることがわかった。
「ちょっと見てこようか」
「どうやって? 床が続いてないのに」
「あのくらいの距離なら跳んでいけるよ」
 そう言ってクロードは助走をつけ、地面を蹴って跳躍した。ところが足が床を離れた瞬間に、彼の身体が何もない空間に呑み込まれるようにかき消えてしまった。レナの血の気が一瞬引いたが、程なくして背後からクロードが現れて床に着地した。
「あ、あれ?」
 いっせいにこちらを振り返る仲間を見ると、クロードは狼狽《うろた》えた。
「なんでみんな、ここにいるの?」
「……なんでって、あたしたちはずっとここにいるわよ。あなたが勝手に消えて出てきただけで」
 オペラが肩をすくめて言った。
「えぇ、おかしいな……確かに向こうに跳び移ったと思ったのに」
「どうやらここは空間に特殊な制御が加えられているようだな」
 エルネストはセリーヌから借り受けた道具袋からリンゴを取り出すと、床板のない空間に放り投げた。宙に投げ出されたリンゴは途中まで問題なく放物線を描いていたが、ある時点でやはりかき消えて、今度はエルネストの頭上から落ちてきた。
「一見すると吹きさらしのように見えるが、実は見えない壁で仕切られている。空間という壁でな」
 掌を差しだしてリンゴを受け取ると、再び道具袋に仕舞う。
「向こうに行くにはどうしたらいいのかしら?」
「試練というのだから、セオリー通りに進めば行けるようになっているのだろう。確か鏡は三つあったな。他のを試してみよう」
 そこで彼らはひとまず小部屋に戻って、次に左の鏡に入ってみることにした。
 そこは先程とはまた違った空間のようだった。根本的な構造はほとんど同じだが、まわりは白で床は黒と、色合いが全く反転している。彼らが乗っている床板は、道のように細長く延びた先ですぐに途切れていた。行き止まりかとも思われたが、そこに敷かれていた黄色の板が転送装置だとわかると、迷わずその板を踏んだ。転送された先にはどんぴしゃり、あの透明な球体が鎮座する台のひとつがあった。
「これをどうすればいいんだ……?」
 クロードが慎重に台に近づいて、球体に手を伸ばした。彼の指が球面に触れようとした刹那、ふたつの間に青白い電気が奔《ほとばし》った。
「あちッ!」
 クロードは反射的に手を引っ込めた。そうして見ると、球体が青白い光を帯びながら回転している。
「なんだ……壊れたのか?」
「いや、これでいいんじゃないか」
 遠目で他の球体を見渡して、エルネスト。
「とりあえずここにある全部を動かしてみよう」
 そこの床には別の黄色い板があった。それを踏むとまた白い空間に戻った。床板の構成はさっきと違うようで、曲がりくねった通路に沿って歩いていくとやはり別の黄色い板が。転送先は回転させた球体のすぐ隣の台だった。
「さて……」
 クロードが台の前に立つ。が、そこでなぜか躊躇するように立ちつくしていた。
「なにやってるの、早く動かしてよ」
 オペラが急かすと、クロードは情けない顔をして振り返り。
「あの、動かすときに手が痛いんですけど……」
「男の子なんだから、我慢なさい」
 有無を言わさぬ笑顔で、オペラ。
「……はい」
 クロードは観念して、球体に向き直る。手を近づけると電気が迸《はし》り、球体は回転を始めた。
 そんな調子で彼らは黒と白の空間を行ったり来たりして、片っ端から球体を作動しにかかった。動かし役はすべてクロードが負わされていたが。
 最後の球体を動かすと、六つの球体すべてが明滅しだして、中心に向かって青白い光線が放たれた。六本の光線は中央の床の一点で交わると、そこで目が眩むほどに白熱する。すぐに光線は弱まり、完全に消滅すると球体の回転もぴたりと止まった。中心の床には新たな黄色の板が出現していた。そこは最初に、正面の鏡からこの空間に入り込んだ場所だった。
 そこからさらに黄色い板に乗って、先にあった鏡を潜ると、あつらえ向きに出発点の小部屋に戻ることができた。彼らは再び正面の鏡へ入る。
 床の中心には果たして黄色い板があった。それを踏んで転送されたのは、また今までとは異なる空間だった。円形の床板と中央を占める祭壇のような台、その上には拳大《こぶしだい》ほどの緋色の珠が浮遊している。奥にはここに来て初めて、目に見える壁らしきものがそそり立ち、奇妙な形状をした金属が据えられていた。
「何かしら、これ」
 レナが金属に近づいていく。壁から骨格のような細長い棒が突きだして、稲穂のように首を垂れ下げている。先端は丸い金属の塊で、花の蕾《つぼみ》のようでもあった。
「これがナールさんの言っていた『証』なのか?」
 緋色の珠を間近で見ようと、クロードが祭壇に上がったそのとき、けたたましい音が鳴り響いた。
〈侵入者発見。侵入者発見。ガードシステム作動。強制排除開始〉
 硬い響きを持つ声がどこからともなく聞こえてくる。金属の前できょろきょろと辺りを見回すレナの背後で、床に穴が開いて何かがせり上がってくるのを、クロードは見た。
〈警告します。侵入者はただちに立ち退きなさい。さもなくば速やかに排除します〉
「レナ、そこから離れるんだ!」
 クロードに促されてレナもそれに気づき、慌ててその場から避難する。床の穴は金属塊の手前に三つ。そこから出現したのはいずれも、壁から突き出た金属の蕾を小さくしたような球体だった。
「来るぞ!」
 ディアスが身構える。球体は蕾を開いて、いっせいに光線を放ち始めた。ただ、攻撃はすれど侵入者の姿は認知できないのか、光線の大部分はてんで見当違いのところへ撃ちこんでいる。しかし、四方八方無差別に放たれる光線も時々は的中してくるので、彼らは警戒しつつ、ときには迫り来る光線を躱しながら、金属球との間合いを詰めていった。
 クロードは金属球のひとつの目前まで辿り着くと、剣を振り上げて叩き壊そうとした。ところが球体はすぐさま蕾を閉じて床の穴に引っ込んでしまい、振り下ろされた剣は空を切った。そこへ隣の金属球が的確にクロードを狙って光線を放つ。
「うわっ!」
 すんでのところで背後に退いて避けた。その間に引っ込んでいた金属球も再びせり上がってきた。隣の金属球を狙っていたディアスも同様の手口で躱され、別の球体から光線を浴びせられる。通常の攻撃は出鱈目のくせに、防衛機能だけはやたらと堅固なようだ。
「近づかなければいいんでしょ」
 オペラが距離を隔てた位置から銃弾を放ったが、やはり引っ込んで避けられる。エルネストの鞭も、ディアスの空破斬でさえ反応されてしまっては成す術もない。
「くそっ、これじゃあラチが明かない」
 光線を跳躍して躱すと、クロードは剣を握る手を震わせた。
「クロード、呪紋はどうかしら?」
 そこへ、オペラの治療を終えたレナが駆けつけた。
「呪紋なら、気づかれずに攻撃できるかもしれないわ」
「……そうだな。よし、僕らで時間を稼ぐから、頼んだよ」
 レナは頷いて、詠唱を始めた。
 クロードは金属球に攻撃を仕掛ける。無差別に放たれる光線は、詠唱中のレナに当たる危険性がある。たとえ空振りに終わっても、ともかく今はこちらに攻撃を集中させなければ。ディアスもその動きを理解して、しばらく二人で交互に囮になった。
 しかし、そのとき誰もが気づいていなかった。壁に据え付けられた大きい方の金属塊が、徐《おもむろ》にその首を動かしてレナに照準を合わせたことを。
 不意に、三つの金属球がいっせいに引っ込んだ。そこで彼らは初めて金属塊を仰ぎ見た。長く伸びた骨格の先端で、大きな金属の蕾が開きかけている。クロードが息を呑む。レナは瞑目していて気づかない。
「レナ!!」
 クロードの尋常でない呼びかけに、彼女ははっとして目を開けた。金属の蕾が完全に開いている。クロードの金髪が、仲間たちの姿が視界の端に映る。そして次の瞬間、全てが光に包まれた。

 彼女は、光の直中《ただなか》に放り出された。
 あらゆる音が消失した、あらゆる感覚が欠落した、ただひたすら光の海の広がる場所だった。
 自分が何故ここにいるのか、どうしてここに来たのか、疑問は揺蕩《たゆた》う光の波の狭間に紛れて薄れゆく。
 その場を充たすは大いなる安らぎ。その場を包むは果てしない幸福。
 彼女はこころを解き放ち、安寧《あんねい》のゆりかごに身を任せる。母の胎内で悩みも苦しみも知らずに眠っていた、あの頃を思い出しながら。ああ、そういえば、こんな感じだったっけな。
 どのくらいの間、そこにいたのかは判らない。ただ、ふと何かを感じて横を見ると、彼女の傍《そば》にもうひとり、誰かが立っていた。
 少女と少年は、並んで手を繋いでいた。まるで初めからそうしていたかのように。手を握っている感触はなかったが、そのぬくもりだけは、不思議と感じられた。
 彼女は少年を見た。少年は幼さの残る顔で、にっこりと笑った。屈託のない、素直な笑顔だった。そして手を離す。
〈ばいばい〉
 声は聞こえなかったが、口の動きでそう言っているように感じた。水色の髪を揺らして、彼女に背を向ける。その姿が遠ざかり、光の中へと消えてゆく。彼女は、レナは手を伸ばした。呼び止めたかった。もう一度思いきり抱きしめてあげたかった。けれど、それは到底かなわないことも、わかっていた。瞳から涙がひとかけら零れ落ちる。溢れる感情を抑えきれず、彼女は少年の名を叫ぼうとした。
(レ…………)

「……ナ、レナ」
 目を覚ますと、クロードの顔があった。肩を揺すり、必死に呼びかけている。
「あ……れ、私……」
 身体を起こすと、きょとんとクロードを見る。
「レナ、大丈夫なのか?」
「え、ええ。何ともないわ」
「何ともない……」
 クロードは怪訝そうに呟いた。
「あれだけの光線を浴びたのに……どうなってるんだ」
「光線?」
 それでようやく思い出した。口を開く金属の蕾。そこから放たれた光。確かに自分は光線を浴びていた。まともに食らえばただでは済まなかったはずだ。なのに、どうして?
(あのとき私は、光に包まれて……そこで……)
 水色の髪。あどけない笑顔。繋いだ手のぬくもり。その姿が光の向こうに消えて……。
 ──まさか。
 レナはスカートの隠しに手を忍ばせる。中に入っていたのは、一握りの砂。取り出してそっと手を開くと、銀色の粒が星の瞬きのように煌めいていた。
「レナ、それは?」
 クロードの問いかけにも、レナは応えられずに肩を震わせる。そう、それはひとりの少年に貰ったお守りだった。銀の鎖と雫の飾り石。しかし、今は真砂《まさご》となって指の間を流れ落ちる。何もなくなった掌に、涙の雫がぽとりと落ちた。
 そっか。あなたが守ってくれたんだね。ありがとう。
 レナは微笑んだ。けれど、なぜだか涙も溢れてくる。悲しんではいない。今でも無事でいると信じている。だけど、なのに、どうしてだろう。こんなに胸がいっぱいなのは──。
「クロード、また来るぞ!」
 遠くでエルネストが叫んだ。顔を上げると、金属の蕾が再び動き出していた。レナは袖で目許《めもと》を拭う。まだ戦いは続いている。泣いている場合ではない。
「させるか!」
 クロードはすぐさま金属塊に向かって駆け出し、途中でひと思いに跳躍した。蕾が開ききり、次には砲撃が放出されるという間際、彼は頭上から飛び込み剣を振り上げ、渾身の力で一撃を叩き込んだ。蕾は裂かれ、火花とともに金属の破片が辺りに飛散した。
 床に降り立ったクロードは、息を切らせながら三つの穴を見た。しばらくは無反応だったが、やがて思い出したように金属球がせり上がってくる。
「親玉を壊せば全部止まる、っていうわけじゃないんだな」
 クロードが大きく息を吐く。オペラやエルネストも無差別に光線を撒き散らす金属球に、ほとほと倦み疲れ、げんなりしていた。
「順番に叩くぞ」
 そのふたりに、横にいたディアスが指示を出した。オペラたちは最初は意味がわからず首を傾げるが。
「俺は右の奴を狙う。お前らも一人ずつ狙いを定めろ。タイミングを合わせて一気にいくぞ」
 その言葉で諒解できた。そうして三つの金属球の前に三人がそれぞれ配置する。目配せをして、攻撃を開始した。
 まずディアスが右端の金属球を叩く。右端は引っ込み、中央の球体がディアスに照準を合わせる。中央を引き受けたオペラはすでに跳び上がり、銃を構えていた。
「スプレッドレイ!」
 光弾は開きかけた中央の蕾に命中し、粉々に砕け散った。続けてオペラを狙っていた左端の金属球にもエルネストの鞭が降りかかる。
「サンダーウィップ!」
 電光の帯びた鞭を叩きつけると球体は感電して、ばちりと大きな音を立てて内部から爆発した。エルネストを狙うつもりでせり上がってきた右端の蕾も、その前で仁王立ちになっているディアスに呆気なく壊された。
「大成功ね」
 オペラが歩み寄って話しかけると、ディアスは顔を背ける。それにも構わずに、彼女が続ける。
「いつもクロードとしか手を組まないあなたが、どういう風の吹き回し?」
「手が空いていたから、お前らを使ったまでだ。ちょうど三人だったしな」
 素っ気なく言うと、完全に背を向けてしまった。オペラは微笑を洩らす。
「レナ、もう平気かい?」
「ええ、だいじょうぶよ。ごめんなさい」
 レナはしっかりと立って、頷いてみせた。
 ──そう、今は振り返るときじゃない。前を向いて歩くんだ。それがきっと、あの子の想いに報いることになるのだと、強く信じて。
「試練はこれで終わりみたいだけど……。宝珠《オーブ》ってのは?」
「あれじゃない?」
 レナが中央の台を指さした。ふたりは壇上に登り、そこに安置されている緋色の珠を囲んだ。
「これは……」
「あ……なに……?」
 珠の奥に燻《くすぶ》る光を見つめていると、徐々に視界が変化していく。頭に霞がかかったようになり、周囲の景色が歪み始める。やがて全ては闇の底に沈み、ふたりの意識は自らの裡《うち》へと堕ちていった。


 ──私は、泣いていた。
 懐かしい森の薫り。木の葉のヴェールから射し込む明かりが地面近くでは光のカーテンみたいで、風に吹かれてはゆらゆら揺れている。木の根元にこびりついている苔は、朝露できらきら輝いていた。
 森でいちばん大きな木の下で、私は泣いていた。冷たく湿った落ち葉の地面に脛《すね》から膝までをべったりつけて、目の前に横たわっている小犬のからだを何度も揺すりながら。涙でぐしゃぐしゃになった顔でチビ、チビと名前を呼んで、揺すって、揺すって……揺すればそのつぶらな目を開けて、起きあがってくれるものだと信じて。森で遊ぶときはいつもそばにいてくれた、私の大事なおともだち。それが今は、露に濡れた落ち葉よりも冷たかった。
「どうしたの、レナ?」
 お母さんが私を見つけて、こっちに歩いてきた。私はすぐに走っていって、お母さんの腰に抱きつく。
「お母さん、お母さん」
 泣きじゃくる私の肩に手を置いて、お母さんはしゃがんで私の顔をのぞきこんだ。
「あらあら、せっかくの可愛い顔が台なしじゃない」
 赤く膨れた顔をハンカチで拭ってもらううちに、私も泣きやんだ。
「チビが、チビが動かなくなっちゃったの」
 しゃくり上げながら、私はお母さんに言った。
「チビ? チビって、あの犬のこと?」
 私はこくりとうなずいた。お母さんは立ち上がってチビの方へ行くと、横になったチビをじっと見つめていた。それから私のところに戻ってきて。
「レナ、よく聞いて。チビはね、ここからずっと遠いところに行かないといけなくなったんだ」
「どうして? きのうまでずっといっしょに、いっぱいいっぱい遊んだんだよ。わたしのこと、きらいになったの?」
 私は、舌足らずだけど一生けんめいそう言った。私はただ、チビがいなくなるということで胸がいっぱいだった。
「レナのことは今でも好きだよ。でも、チビもそろそろお父さんやお母さんのところに帰りたいんだ。レナも暗くなったらおうちに帰るでしょ。チビにもチビのおうちがあるのよ」
「おうちに帰るの?」
 私はきょとんとお母さんを見た。
「そう。おうちはうんと遠い場所だから、チビもたくさんお休みしないといけないんだ。だから、邪魔しないで、ゆっくり寝かせてあげよう、ね?」
 お母さんは優しい笑顔で言った。
「……お休みしてるの」
 私は小さな声で言った。お母さんがうなずくのを見ると、じっと下を向いて考えこむ。
「……お別れ、してきていい?」
「ええ。してきなさい」
 私はすぐに走って、チビの前に立った。
「ばいばい、チビ」
 チビは目を閉じたまま、眠り続けている。
「またいっしょに遊ぼうね。わたしのこと、きらいになっちゃ、やだよ」
 私は近くの落ち葉を両手で拾い集めて、チビに振りかけた。お母さんはそんな私を見て、ひどく驚いたふうだった。私はチビが寒くないようにと落ち葉をかけてあげたのだけれど、お母さんはたぶん、私がチビを埋めていると思ったのだろう。
「おやすみなさい、チビ」
 落ち葉のベッドに頭だけ出したチビは、森で一番大きな木の下で、ずっとずっと眠っていた。


「──あ」
 ぼんやりとした視界が鮮明になる。レナは壇上の変わらぬ場所でクロードと向き合っていた。彼も同じく喪心《そうしん》したようにこちらを見ている。
「なんだったのかしら、今の……」
「レナには何が見えたんだい?」
 クロードが訊いてきた。
「ずっと昔よ。まだなにも知らなかった、子供のころの私……」
 レナは先程の光景を思い起こして、なぜか哀しくなる。
「そう……僕も同じだ」
 そう言ってクロードは下を向く。緋色の珠が地面に落ちていた。彼がそれを拾い上げると、宝珠《オーブ》は灼熱する炎をその中に閉じこめたように、ぎらぎらと赫《かがや》いていた。



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【ひとくち解説】
 レオンのペンダントのエピソードは、本にする際に追加したものです。ずっと気がかりだったことなので、この機会に書けて良かったです。
 このあたりから文章量も増えていきます。チェックも大変だ('A`) まァ、ネーデ編は本を作るときわりと念入りにチェックしてるから、そんなきっちりやらなくても大丈夫だと思うけど。
posted by むささび at 00:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説SO2

2008年11月13日

小説 STAR OCEAN 2 〜 ネーデ編 第一章(3)

   3 滅びゆくもの 〜紅水晶の洞窟〜

「まったく、なんなんですの、あの男は。ちょっと若くて身持ちがいいからって、偉そうに」
 背後の壁が閉じたのをいいことに、セリーヌが声を荒げて憤慨している。こういうときの彼女に下手に口出ししようものならたちまち飛び火しかねないので、他の面々は大人しく金属質な通路を歩いていった。
 すぐに筒状のガラスで囲まれたトランスポートがあった。用心しいしい中へと入る。七色の光に包まれ、一瞬の浮き上がるような感覚のあと──彼らは元のトランスポートの中にいた。
「あ、あれ?」
「同じ場所じゃねぇか」
「いえ、違いますわ」
 周囲をよく見てみると、先程とは部屋のかたちが異なる。トランスポートの形状が同じであった上に部屋の雰囲気が似ていたため、すぐに違う場所とはわからなかったのだ。筒の出口から延びた通路は右に折れて、その先の壁にできた細長い隙間から明かりが洩れている。どうやらそこに扉があるらしい。
「なんだよ、おどかしやがって……壊れたのかと思ったぜ」
 彼らはトランスポートを出て、通路の先の扉を開ける。途端に日射しが飛び込んできて目をしたたか眩ませた。
 額に手を当てて日を遮りながら見渡すと、そこは丸木小屋のような家の中だった。部屋の中央の床には鷹の絵が織り込まれた絨毯が、壁際には朴訥《ぼくとつ》とした椅子と机が一揃い置いてあったが、いずれも褪色したり黒ずんでいたりしている。しきりに彼らを照らしつける陽の光は向かい側の天井近くの明かり取りから射し込んでいた。
 少し進んで絨毯の上に立ち、背後を振り返ってみる。壁を仕切って拵《こしら》えた書棚には分厚い本がぎっしりと詰まっている。書棚と彼らの出てきた扉の間に梯子がかかっているのは、棚の上を寝床にでもしているからだろうか。素朴ながら調度品もよく使い込まれており、住みにくさはあまり感じられなかった。
「ここは……?」
「どう見ても、人ン家、だよな」
 どうしたものかと戸惑っているうちに、明かり取りの下の扉が開いた。彼らはぎくっとしてそちらを向く。
 入ってきたのは、痩せぎすなひとりの男。
「あれぇ、どうして君たちは僕の家にいるんだい?」
 立ちつくす五人を見ても別段驚いた様子もなく、彼は首を傾げて調子っぱずれな声で言った。
「あの、すみません、僕たちはアーティスさんに言われてここに来たんですが……」
「アーティスぅ?」
 男はさらに首を捻り、それから奥の扉を見てああ、と得心がいったように。
「そういえば、そこのトランスポートは『ホーム』に通じていたのだったね」
 革の手袋を外して、彼はクロードに右手を差し出した。
「初めまして。僕は動物学者のノエル・チャンドラー」
「あ、はあ、クロード・C・ケニーです」
 請われるままに握手をするクロード。おっとりとした物腰になんだか調子が狂ってしまった。
 ノエル・チャンドラーは手を離して、それから猫のような切れ長の目を他の者たちに向ける。
「ところで、君たちはなんの用でここに来たんだい?」
「は!?」
 クロードは唖然と彼を見た。
「ご存知じゃないんですか?」
「知らないよ。というか、君たち何者なんですか?」
 あまりに落ち着き払った所作だったので、てっきり事情を把握していると思っていたのに。彼らはすっかり調子が狂ってしまった。
「僕たちは、サイナードを求めてアーティスさんのところへ行ったんです」
 ようやくクロードが説明を始める。
「そうしたら、データを入れたサイナードが暴走してしまって……それで、ここに来ればサイナードが手に入ると」
「ああ、なるほど。君たちがネーデの外から来たという人間か」
「知っているんですか?」
「うん。十賢者潜入と同レベルで報道されていたからね」
 ノエルは外した手袋を椅子の上に置いてから、言った。
「アーティスのことだ、どうせ君たちに何も話さないままここに送り込んだのだろう」
「ここはいったい、何処なんですの?」
 セリーヌが訊くと、ノエルは彼らを見渡した。金茶色の短い髪がふわりと揺れる。
「ここは僕が管理している稀少動物保護地域。君たちが求めているのは野生のサイナードだね」
「野生?」
「サイナードに野生種がいるんですか?」
「絶滅寸前だけどね。最後の一匹が最重要保護区域にいる」
 ノエルは言いながら書棚の前まで歩いていき、棚の上に腕を伸ばしてなにかを取り出した。
 戻ってきて机の上いっぱいに広げたのは一枚の地図。この近辺のものらしい。クロードたちを手招きして机のまわりに集まらせると、ノエルは北東の隅に広がる平原の一点を指で示して。
「これが現在地。ここからずっと南西へ進むと……」
 地図上の指を滑らせていき、ほぼ中央の山で止まった。
「この山にある紅水晶の洞窟の奥に、サイナードは棲んでいる」
「そいつを捕まえてくればいいんですね」
「いや、捕まえたところでいうことは聞いてくれないよ。『ホーム』の支配種とはわけが違うのだから」
「じゃあ、どうするんですか」
 クロードが訊くと、ノエルは一呼吸置いてから、言った。
「戦うんだ」
「戦う?」
 今朝から黙ったきりのレナがここで初めて顔を上げた。
「かれらの習性なんだ。サイナードは自分よりも力が上だと認めたとき、はじめて主人を命がけで守る立場につく」
「そいつに戦いを挑んで、勝てばいいということか」
 ディアスが言うと、ノエルは軽く首を横に振る。
「ただ打ちのめせばいいというものでもないよ。肉体だけでなく、精神も優れていないと認めてくれない。君たちはそれだけの自信があるかい?」
「…………」
 五人は、めいめい思うところに黙した。
 ノエルはさっさと地図を丸めて持ち出し、部屋の隅に置いてあった大きな背負い袋のポケットに突っ込む。
「あの……ノエルさん?」
 袋を開けて中を覗き込んでいるノエルに、不審を抱いたクロードが呼びかける。
「サイナードの住処まではどんなに急いでも丸一日はかかる。それなりの準備はしておかないと……はて、食料は足りるかな」
 ノエルはそう応えてから、足許の床についていた金具を引っ張り出す。それを握って手前に引き寄せると、床の一部が外れて四角い穴が開いた。床下は貯蔵庫になっているようで、彼は俯《うつぶ》せになって穴に頭を突き入れたまま、野菜やら薫製の肉やらを取り出しては床に置いている。
「もしかして、ノエルさんも行くんですか?」
「紅水晶の洞窟は内部が複雑に入り組んでいる。不案内な人ばかりじゃ途中で迷ってのたれ死んで、サイナードのご馳走になるのがオチだよ」
 平然とそんなことを言い放つノエルの声は、穴の中で隠《こも》って聞こえた。
「ノエルさん」
 と、レナが穴の手前に歩み寄った。ノエルは頭を起こして床に座り直す。
「どうしても、戦わないとだめなんですか」
「サイナードを従わせたいのならね」
「ノエルさんは、平気なんですか。たった一匹しかいないサイナードが傷つけられようとしているのに。もしかしたら死んでしまうかもしれないのに」
「たとえそれで滅ぶようなことがあっても、それは彼らの運命だ」
 そこまで言ったとき、ノエルはレナの厳しいような視線に気づいた。澄んだ双眸の奥に宿る純然たる輝きに吸いつけられるように、細い目尻をいっそう細くして見つめる。
「君、名前は?」
 突然そんなことを訊かれて、レナは少し困惑したが。
「え……レナ、レナ・ランフォードです」
「そうか……」
 食い入るようにレナを見つめていた視線をもぎ離して、ノエルはかぶりを振る。彼女の瞳の輝きに、ひとつの可能性を見出して。
「君が納得できない気持ちはよくわかる。僕もかつてはそうだった」
 床板を元通り填め直して、そこらに置いた食料をかき集めながら、ノエルが言う。
「でもね、それは結局、サイナード自身の問題なんだ。僕らがとやかくいうものでもない。ここにいるサイナードは完全な野生種だ。『ホーム』の支配種とは違って、自由に生きる権利が与えられている。だから……当人に聞いてみようよ。僕らは僕らで譲れない言い分がある。それをサイナードがどう思い、どう判断するのか見守ろう。きっとそれが、ほんとうの答えなのだから」
 食料をすべて背負い袋に詰め込み終わると、ノエルは彼女に優しく笑いかけた。レナはその笑顔を刮目したまま、立ちつくしている。
「さあ、出発しよう」
 袋を背負い、椅子に置いた革手袋を再び填めてから、彼は言った。


 ラヴァーはできたばかりの通路を、横柄そうにのさばり歩いた。
 壁に描かれた奇怪な紋様が色とりどりの輝きを放ち、悩ましげな肢体を妖艶に照らしあげる。身につけているのは下着のような薄い布きれ一枚のみ。香り立つ金髪を靡かせ恍惚《こうこつ》とした視線をあたりに振りまくその様子は、まさしく愛人《ラヴァー》のそれであった。
「それにしても趣味の悪い建物ねぇ。陰気くさいったらありゃしない」
 歩きながら左手を伸ばして壁に触れながら、ラヴァーが悪態をついた。
「もう少し明るくならないものかしら……いや、それ以前にこの装飾ね。なんの意味があるんだかわかったもんじゃないけど。せめてこのへんに花を置くとかさぁ、ファンシーグッズを……」
 あれこれ文句をつけながら通路を渡っていく。
 彼女はすこぶる不機嫌だった。十賢者たちの本拠となるフィーナルの塔が完成したとの報せを受け、せっかく愛するルシフェル様の晴れ姿が拝めると思って飛んできたのに、彼は不在であった。肩透かしを食った彼女は、そこらにいた警護用のタキコドゥスとかいう機械仕掛けの魔物を数体ぶち壊したところでようやく腹の虫が治まり、塔を後にすることにした。
 塔の内部はどの階も天井といえるものがない。上を仰げばただ茫漠とした闇が広がっているのみ。それぞれの階の部屋はあくまで『断片』であり、空間を歪曲させてそれらを階層構造に積み上げているに過ぎない。言うなれば塔の外観は断片化した部屋を格納する『箱』でしかなく、その内部は混沌とした空間で充たされているのだ。
 通路を抜けて出口へと繋がる部屋に入る。そこの中央に誰かが背を向けて立っていた。ラヴァーに気づくと、その者はゆっくりとこちらを振り返る。
「ガ、ブリエル、様?」
 彼女がガブリエルと呼んだ赤髪の男は、血走った眼《まなこ》でこちらを睨みつけた。その周囲は燃え上がるような霊気《オーラ》に覆われている。
「……フィリアは何処だ」
「はぁ?」
 ガブリエルはつかつかと歩み寄り、ラヴァーの前に立った。
「フィリアは何処だと聞いておろう」
「そっ、そんなこと……!」
 言い終わらぬうちにラヴァーは首を掴まれ、吊し上げられてしまう。
「言え、フィリアを何処にやった。隠しても無駄だ」
 喉を握り潰さんほどの力で締めつけられて、返答ができるはずもない。ううと唸るような声を洩らすばかりのラヴァーに愛想をつかしたのか、ガブリエルは腕を振って彼女を放り投げた。壁に叩きつけられ、喉を押さえて噎せ返るラヴァー。
 ガブリエルの纏う霊気《オーラ》がいちだんと激しくなった。
「フィリアは何処だ! 何処に隠した!」
 塔全体を揺るがすほどの怒号にラヴァーは戦慄を感じずにはいられなかった。赤い髪が鬣《たてがみ》のように逆立ち、眸は狂気じみた金色にぎらぎら明滅する。
「なんだ、どうしたんだ!」
 扉が開いて、駆け込んできたのは筋肉質な上半身を剥き出しにした男。ガブリエルの姿を認めると慌ててその場に立ち止まる。
「ザフィケル様、助けてッ」
 ラヴァーはすかさずその男の腕にすがりついて訴えた。
「いつからあんな状態なのだ?」
 ザフィケルがラヴァーに訊く。
「知らないわよ。あたしが部屋に入ったときから、なんだか様子が変だったもの」
「フィリアよ! 我が愛するフィリアよ!」
 ガブリエルはなおも常軌を逸したように叫び狂う。そのたびに霊気《オーラ》が爆発し、強烈な波動が部屋を突き抜ける。
「お前はいったい何処にいるのだ!? 銀河の果てか、地の底か! この私の嘆きが聞こえぬというのか、フィリアよ!」
「ガブリエル様、お鎮まりをっ!」
 片腕を前に出して波動を防ぎながらザフィケルが叫ぶ。ラヴァーはとっくに彼の背後に避難している。
「お前のいない日々に何の意味がある!? お前の笑顔を見られないこの世界に、どれほどの価値があるというのか!」
 ガブリエルを中心に暴風が吹き荒れ、電撃が迸る。背後の両開きの扉に罅《ひび》が入り、次の波動で粉々に砕かれて吹き飛んだ。
「何事だ!」
 部屋の上空から突如として現れたのは銀髪の男。不意の暴風に吹き上げられるが、真紅の翼を翻してすぐに体勢を立て直す。
「ルシフェル様ぁっ!」
 ラヴァーが待ちかねたというふうに、嬉々とした声色で叫んだ。
「ルシフェル様、ガブリエル様をお鎮めください!」
 ザフィケルも必死に呼びかけた。ガブリエルを核とする暴風はいよいよ激しさを増す。
「ちいっ、欠陥品《バグ》が」
 ルシフェルは舌打ちしたが、彼とて迂闊に嵐の中に飛び込むわけにもいかない。
〈我が望みは復讐という名の破滅、混沌という名の終焉。貴様らが私からすべてを奪ったように、私は貴様らのすべてを奪い尽くそう〉
 ガブリエルの声ならぬ声が部屋を震撼させる。紋様の浮いた壁に亀裂が奔り、空間制御が乱れて壁そのものが布きれのように波打っている。
「ルシフェル様、このままでは塔が……」
「黙れ! わかっている!」
 ルシフェルは一喝してから二本の指を突きだして、なにかを描くように素早く動かした。指先の軌跡が紫に輝く光の筋となって、ひとつの紋章が浮かび上がる。
「次元転換《ディメンジョン・スリップ》」
 最後に腕を横に振るうと紋章は急激に膨れあがり、光の筋が壁や床に張りつく。するとたちまち部屋が消失し、ルシフェルとザフィケル、ラヴァー、それにガブリエルだけが闇黒の空間の中にただ、浮遊していた。その瞬間に嵐も治まり、ガブリエルはまだ何事か叫んでいるがその声も届かない。霊気《オーラ》さえも消滅していた。実空間におけるすべての現象は、この空間内ではことごとく否定されるのだ。
 やがて、ぷつりと糸が切れたようにガブリエルが静穏になった。頃合いをみてルシフェルが空間を戻しても、彼は頭をだらりと垂らし、廃人のようにそこに佇んでいる。ザフィケルが胸を撫で下ろし、ラヴァーは半べそをかいて座り込んだ。
 ルシフェルは元通りそこに出現させた床に降り立つと、小刻みに息をきらす。ガブリエルに干渉するのが不可能だと判断した彼は、空間をねじ曲げて造った塔全体を一時的に別次元に退避させるという強行手段をとったのだが、これが思いのほか労力を要した。彼でなければ到底できる芸当ではなかっただろう。
「ああん、ルシフェル様ぁ」
 ラヴァーがまっしぐらに彼の胸倉に飛び込んできて、頸の後ろに腕を回す。
「どうしてもっと早く来てくださらなかったの、あたしすっごく怖かったんだから」
「少し雑用を片づけていたのでな。悪かったよ」
 詫びの徴《しるし》とばかりにルシフェルは彼女を抱き寄せて口づけを交わす。そして耳許にそっと囁く。
「もうしばらくの辛抱だ。ネーデを統べ、あの欠陥品《バグ》を始末すれば、もはや我らを脅かすものはなにもない」
「ええ……わかっているわ」
 ラヴァーもうち笑んで囁き返した。
「そちらの首尾はどうだ?」
「ばっちりよ。あいつらは今、移動手段を求めて近くに来ている。そこらの動物に悪戯しておいたから、ただでは済まないわ」
 ルシフェルは満足そうに頷くと、今一度唇を交わす。ふたりの横を、ガブリエルが下を向いたまま、足を引きずるようにしてゆっくりと通り過ぎていった。


 夜の森は、不気味なほどに深閑としていた。風は夕暮れにとうに絶え、梟や夜鷹の愁いを含んだ鳴き声すら聞こえてこない。樹木や茂みの草も昼間にはあれだけ陽の光を浴びて活き活きとしていたものが、この闇の中ではひっそりと息を潜めて、まるで夜が明けるのを忍んでいるようだ。
 彼らは森の中で、焚火を囲んで野営を張っていた。火の粉を飛ばしながら盛んに燃える焚火の上で、真鍮の鍋がぐつぐつと煮えている。ノエルは杓子でスープの表面に浮いた灰汁を取り除き、それからほんの少し掬って味見をする。ちょうどいい塩梅だというふうにひとつ頷くと、用意してあった金属の器に盛って、ひとりずつ手渡していく。
 レナは器を受け取ると、両手で抱えるように持って顔に近づけてみた。真っ白な湯気が目の前いっぱいに広がり、食欲をそそるようないい匂いが鼻孔をくすぐる。
「熱いから気をつけてくださいね」
 ノエルが言ったそばから、ボーマンがあつあつの芋を丸ごと口に入れてしまってもがいている。
 レナは肉や野菜の浮いたスープをスプーンで掬って、ふうふうやってから口に入れた。味つけらしい味つけはほとんどしていなかったのに、薫製肉の塩分と野菜のエキスがうまい具合に溶けだしていて、口当たりもよく、とても美味しかった。
「学生の頃はよく、こうしてアーティスとふたりで鍋を囲んでいたものだけどね」
 自分の分を器に盛ってから地面に腰を下ろすと、ノエルは懐かしむように言った。
「アーティスさんと?」
 クロードが肉を頬張りながら訊く。ノエルは焚火の熾《おき》に眼をやりながら。
「うん。僕らは動物の生態調査のために、野原やこんな森の中で一晩過ごすことなんてざらにあったからね。そのたびに僕がこのスープを作ると、あいつはこの料理は飽きたとかもっとレパートリーを増やせとかぶつくさ文句を言いながら、結局ぜんぶ平らげてしまうんだ」
 意外そうに話を聞く面々に、ノエルは寂しそうに微笑する。
「……そうだね、君たちは今の彼しか知らないから信じられないかもしれないけど、昔のあいつは陽気で少しふざけた奴でね、それにも増して動物が好きだった。本当に、かれらの幸せを第一に考えていたんだよ。けれど、教授との意見の食い違いで大学を出ていってから、あいつは変わってしまったよ。あんなに動物のことを想っていたやつが、今や動物《サイナード》を支配する施設の館長なのだからね」
 炎に照らされたノエルの貌は脈々と輝いている。
「でもね、最近思うんだ。僕が思っているほど、あいつはそんなに変わっていないんじゃないかって。ただ、動物に対するいっさいの感情を無理に押し込めているだけなんじゃないかって。『ホーム』の館長としての仕事を全うするために、ね」
「どうして」
 と、レナが突然、ノエルの方を向いて言った。
「どうしてアーティスさんはそんなに仕事にこだわるんですか」
「それは僕にもわからないよ。ただ……これは僕の勝手な憶測でしかないのだけど……彼は、サイナードを守ろうとしているんじゃないかな」
「守る?」
「うん。たとえ支配種反対の立場をとって、この先何年かあとに支配種の飼育が禁止されたとしても、それまでの期間、サイナードがああいう扱いを受けてきたという事実に変わりはない。それならば、あえて権力の下に立って、今生きているサイナードをできる限り庇護する立場をとった方がいいと考えたんじゃないかな。いつ果たされるかわからない最良の策よりも、今果たすことのできる最善の行動をあいつは選択したんだ。実際、彼が館長になってからサイナードに対する扱いは少しずつ改善されている」
 そこまで言うと、ノエルはレナを見て、優しい口調で続けた。
「だからね、どうか彼を誤解しないでほしいんだ。あいつが君たちにどんなことを言ったのかは知らないけど、誰よりサイナードを死なせてしまって悲しんでいるのは彼なのだから」
「……はい」
 レナは小さく返事をしてから視線を手に持った器に落とす。縁に口をつけて残りのスープを飲み干すと、身体がぽかぽか暖まってきた。
「長話につき合わせてしまってすまなかったね。明日は早めに出発したいから、そろそろ食事を済ませて休もうか」
 ノエルがそう言って立ち上がりかけたとき、ディアスが素早く背後を振り返り、腰から外して傍らに置いていた剣を握る。
「どうしたの?」
「なにかの気配がした」
 ディアスが声を押し殺して応えた。彼の視線の先の茂みで、確かに物音が聞こえる。彼らが息を呑んで見守っていると、やがて茂みが大きく揺れて、そこから獣の頭が突き出た。
「魔物か?」
「いえ、その子は大丈夫です。そっとしておけば危害は加えません」
 獣は茂みから完全に抜け出して、焚火を怖がるふうでもなく彼らの方へ近づいてくる。躯のかたちや大きさは山犬とほとんど変わりなく、毛並みは目の覚めるような青色をしていた。先が二股にわかれた尻尾をしきりに振って、レナの前へと歩み寄る。
「あら、もしかして、おなか空いてるの?」
 食べ終えて地面に置いた器に鼻をよせて匂いを嗅いでいる様子を見て、レナは鍋に残っていた肉を杓子で掬って手に載せ、獣の前に差し出した。獣はやはり鼻を鳴らして匂いを嗅いでいたが、しまいにはぱくりと一口で食べてしまった。名残惜しそうにレナの手を舐める獣の頭を、彼女はもう片方の手で撫でてやる。クロードが剣を下ろし、ボーマンが安心したように息をついて座り込む。
「この犬も稀少動物なんですの?」
「ええ。今のところ絶滅の心配はありませんが、それでも二百頭ほど……」
 獣の眼の色がみるみるうちに濁っていくのを、誰ひとりとして気づくものはなかった。
 大きく咆哮をあげて、いきなり獣がレナに襲いかかった。逃げ出す間もなく前肢で押し倒され、仰向けになった彼女の肩口を、先程まで巧妙に隠していた鋭い犬歯で噛みついた。
「くそっ!」
 剣を抜くのが遅れたクロードは足で獣の腹を蹴り上げた。レナから離れたところですかさずディアスが斬り捨てる。ぎゃいんと甲高い悲鳴をひとつあげて、獣はそれきり動かなくなった。
「ひっ!」
 セリーヌが引き攣ったような声を洩らした。周囲に視線を巡らすと、同種の獣が幹の陰から、茂みの向こうから次々とやってきて彼らを取り囲んでいる。最初の獣とは違い、すでに牙を剥き低く唸って威嚇している。
「ノエルさん、どういうことですか」
 クロードが剣を抜き身構えて、焚き火を挟んだ向こうのノエルに言った。
「これが危害を加えない動物なんですか」
「おかしい……かれらは集団で行動することなんてないはずだ」
 ノエルは訝しげに眉を寄せる。
「来たぞ!」
 獣は見計らったかのようにいっせいに襲いかかってきた。クロードとディアスは倒れたままのレナを、ボーマンはセリーヌを庇うようにして応戦する。
 首筋に食いつこうと飛びかかってきた一頭の顎を、ボーマンは籠手のついた拳で殴りつけて昏倒させる。すぐに別の二頭が向かってくるのを見ると、彼は背後のセリーヌに横に退くように命じてから、自分は跳躍した。そうして空中で懐から毒気弾の丸薬をふたつ取り出すと、両手にひとつずつ持って地面の獣どもに投げつける。炸裂する丸薬に二頭の獣はあえなく吹き飛んだ。
 レナの肩口から流れる血の匂いを嗅ぎつけているのか、執拗に迫り来る獣を追い払いながらクロードがふと背後に目をやると、一頭の獣がノエルに飛びかかろうとしていた。
「ノエルさん、危ない!」
 だがノエルは身構える様子もなく、飛びかかる獣を屈んで避けると、地面に着地したところを逆に捕まえて顔を覗き込んだ。
「お前たち、いったいどうしたんだ」
 歯茎まで剥き出し物凄い形相をして彼の手の中で暴れる獣に、ノエルは平然と問いかけ、顔を覗き込む。
 そこで彼が見たものは、闇が煙のように渦巻く瞳孔。
「なんだ……この目は」
 愕然としたノエルが力を緩めた隙に獣は彼の手を抜け出して、すぐさま襲いかかってきた。ノエルは歯を食いしばり、苦渋の表情を浮かべながら腕を前に突きだして唱える。
「テタナスウインド!」
 周囲にいくつもの毒の刃が生じ、一息に獣の躯を貫いた。噴き上がった血飛沫が焚火の熾に降りかかり、音を立てて蒸発する。ひくひくと全身を痙攣させながら地面に横たわる血まみれの獣を、ノエルは無言で見つめていた。
 しつこくレナを狙っていた獣どももクロードとディアスによって余すところなく片づけられ、その場に再び静寂が戻った。痛々しい肩を押さえて上半身を起こすレナを見ると、ノエルは彼女のところへ歩み寄る。
「大丈夫かい」
 ノエルは肩を押さえる手をそっと下ろさせて、傷口に手を翳してヒールと唱えた。淡い光の粒が触れると出血は止まり、牙で抉られた傷口も完全に塞がった。
「回復呪紋……! そうか、やっぱりそれはネーデ人の力だったのか」
 クロードが言うと、ノエルは首を横に振って否定した。
「いや、すべてのネーデ人が使えるわけではないよ」
「え?」
 ノエルはクロードの方を向いて説明する。
「遺伝子操作によってネーデ人が紋章を刻まずとも呪紋が使えるようになったのは遠い昔のこと。エナジーネーデに移住して以降は遺伝子操作は禁止され、また呪紋の必要性そのものが損なわれた今となっては、呪紋を使えるのはほんの一握りのネーデ人だけなんだ」
 そこまで言ってから、彼は地面に座り直すレナの方を向いて。
「すまなかった。火を怖がらなかった時点で僕も気づくべきだったんだ。かれらは別の大きな意志によって突き動かされていたようだった。おそらくは……」
「十賢者か」
 ボーマンの言葉に、ノエルは神妙に頷く。
「今夜は交代で見張りを立てた方がいいな」
 そう提案したクロードが剣を収め、何気なく隣のノエルを見て……凍りついた。
 彼は口を閉ざし、相変わらず無表情に獣の死骸を眺めていた。だが、彼の周囲を取り巻く気配が、凄まじいほどの瞋怒《しんど》で燃え盛っているように感じたのは、決して焚火の炎に照らされているせいではなかっただろう。


 紅水晶の洞窟は、多くのガスを含んだ深成岩のマグマが冷えて固結したためにできた、巨大な空洞だった。内部はペグマタイトと呼ばれる数種の結晶を含んだ花崗岩で覆われており、壁や地面のいたるところに紅に染まった水晶の柱が突き出ている。地面の割れた部分や半透明の結晶になっている部分から下を覗くと、そこでは今も赤黒いマグマがどろどろと流れていた。水晶が紅く輝いているのもこのマグマの光を受けているからのようだ。
「はぁ……なんだかとんでもないところに棲んでるんだな、サイナードって奴ぁ」
 ボーマンはそう言って、白衣の袖で額の汗を拭う。足許をマグマが流れているだけあって、内部はかなり暑い。
「……殺気が漲《みなぎ》っているな」
 洞内を隅々まで見渡してから、ディアス。
「ええ、僕も感じました。普段なら他の動物はサイナードの匂いを嗅ぎとって入ってくるはずはないのに」
 ノエルも冷静な口振りで言った。
「サイナードは大丈夫なんですか?」
「そこらの動物にやられるほどサイナードは弱い生き物じゃないよ。だけど」
「それでも急ぐに越したことはありませんわね」
 セリーヌの言葉に全員が同意して、彼らは一気に駆け出した。
 出発前にノエルが言っていたように、洞窟の中は結晶のこびりついた岩壁で道筋を仕切られていて、複雑な迷路のようだった。彼の先導なくして辿り着くことは到底無理だったろう。
 水晶の張り出した狭い通路のような道を進んでいくと、今度は一転してだだっ広い大空洞に出た。天井ぎりぎりの上空では魚を縦に割いて開いたような生物が群をなして飛び回っている。
「なんだ、あのヒラメみたいな鳥は?」
「レイスティンガーだ。かれらもこんな洞窟の中に入り込むことなんてなかったのに」
「どうする? こんな広い場所でまとまって襲われたら……ただじゃすみそうにないけど」
「なんならわたくしが呪紋で撃ち落としますわ」
「いや、それはやめてくれ」
 杖を突きだしたセリーヌをノエルが止める。
「かれらはただ、操られているだけなんだ。できるなら殺さないでほしい」
 五人は困ったように顔を見合わせる。そして。
「……突っきるしかないか」
 クロードの判断により、彼らは再び全力で走り出した。案の定、それに気づいた何匹かが降りてきて襲いかかる。
「ちっ」
 レイスティンガーは嘲るように頭上すれすれを滑空する。彼らは首を低くし頭を抱え、実際に襲いかかってきたものには天命とばかりに一撃のもとに葬り去った。
「こっちだ!」
 空洞を抜けて、どうにか横穴のようなところに入り込む。背後からしつこく追ってくるレイスティンガーを撃退しつつそこを駆け抜けると、また開けた場所に出た。彼らが立っている場所から二尋《ひろ》ほどの道が壁づたいに続き、最後には大きく折れ曲がって下っている。道の下は半透明の結晶でできた床が一面に広がる。飛び降りて無事にすむとも思えない高さだったので、仕方なしにそのまま道をひた走っていった。
 すると、道の下から突如として数羽の鳥が飛び上がってきた。全身を覆う羽毛は鈍色で、鷲のような鉤形の嘴をもっている。
「ペリュトンだ。羽根に気をつけて! 石化させられるよ」
 注意を促すノエルの言葉を解したように、ペリュトンは翼を広げ大きく羽撃いて羽根を飛ばしてきた。ディアスが衝撃波で弾き、レナが防御呪紋《プロテクション》で防いでやり過ごしながら、彼らは迫り来る怪鳥を突き放しにかかった。緩やかな下り道を力の限り駆けて、下の地面とさほど高低差がなくなったところでひと思いに飛び降りた。そうして底を流れるマグマの色で紅く染まった床をさらに走り出したところで、ついにペリュトンは諦めたとみえて、急に上昇して反対の方角へと飛び去っていった。
 追っ手をどうにか振りきった彼らは走るのをやめ、その場で一息つくことにした。レナは膝に両手をついて前屈みになり、苦しそうに咳きこんでいる。セリーヌは尻餅をついて天を仰ぎ、ボーマンに至っては仰向けに寝転がってぜえはあとやっている。さすがにクロードとディアスはさほど疲れた様子でもないが、それでも顎から汗を滴らせて息をついている。
「サイナードのところまでは、まだ遠いんですか?」
 紅潮した顔を手で仰ぎながらクロードが訊くと、ノエルは手巾《ハンカチ》で首を拭っていた手を止める。
「いや、もうすぐそこだよ。ここをずっと行って左に曲がった先だから」
「ったく、年寄りを働かすんじゃねーよ」
 片膝を立てて身体を起こしたボーマンが誰に言うともなく愚痴っている。
「あら、中年太りの予防のためには、丁度よかったんじゃございませんの?」
 セリーヌが揶揄するように口を出すと、ボーマンも躍起になって。
「そういうお前さんだってダイエットにゃ最適だろ? ほれ、心なしかウエストのあたりがスリムになった気がするぞ」
「言いましたわね、この中年色魔が」
「お肌の曲がり角に怒ると小ジワが増えるぜ。もう若くないんだからよ」
 ふたりの間で火花が散りかけたそのとき、洞内に聞き覚えのある咆哮が谺《こだま》した。
「今のは……」
「サイナードだ!」
 四人はすぐに声のした方へと駆け出した。ボーマンとセリーヌを残して。
「おいおい、なんであいつら、あんなに元気なんだよ……」
 不平たらたらのふたりも立ち上がり、おぼつかない足取りで後を追った。

 サイナードは二匹の魔物と睨み合っていた。魔物はいずれも大蜘蛛の下半身と人間の女の上半身を合わせもっている。肌は死人のような土気色で、こめかみまでつり上がった目は青黒い隈で縁取られていた。
 彼らが目を見張ったのは、片方の魔物の手に握られていた小さな獣。両手に一匹ずつ、首根っこを押さえるようにして握られているそれは、紛れもなくサイナードの子供だった。
「ノエルさん、あいつらは……」
 クロードが魔物を示して訊くと、ノエルは困惑したように。
「……見たこともない。ここの動物じゃないよ」
「エルリアの塔であれと似たような魔物と戦った覚えがあるな」
 ディアスが言うと、クロードも頷く。
「ああ。たぶん、十賢者直々の刺客ってとこじゃないか」
 親サイナードは低く呻りながら魔物を睨みつける。躯のいたるところに切り傷や痣が見られ、透明の美しい翅も引き裂かれて大きく破られている。そして、双眸は危険な赤色で充ちていた。ノースシティのときと同じように。
 一方の手ぶらの魔物が腕を前に突きだす。すると掌から白い糸の束が飛び出し、網のように広がってサイナードに降りかかった。蜘蛛の糸は藻掻くサイナードの全身にまとわりつき、動きを完全に封じてしまう。恨めしそうに我が子を見つめるサイナードを後目に、魔物は鎌鼬を飛ばして弄ぶように傷つけていく。
「ひでぇな。あれじゃ、なぶり殺しじゃねぇか」
 遅れてやってきたボーマンが顔をしかめる。
「助けよう。僕とボーマンさんで子供を取り返すから、ディアスはもう片方を」
「わかった」
 言うが早いかディアスは空破斬を放つ。迫り来る衝撃波に気づいた魔物は地面に沈むように消え失せ、すぐに別の場所に出現した。そうしてディアスに鎌鼬を飛ばすが、ディアスも跳躍して軽く躱すと魔物の許へ駆けていく。相手の腹を横に薙ぐように振るったが、またしても地中に逃げられてしまう。背後に現れた魔物は鋭い爪でディアスの背中を引っ掻いた。外套が斜めに裂かれる。咄嗟に横っ跳びに退いて間合いをとったが、いくらか傷は負ったらしく背中がひりひりと痛む。
 魔物は休む間も与えず鎌鼬を飛ばしてくる。先程の全力疾走が動きを鈍くしているのは否めない。それでも疲れた身体を叱咤《しった》して鎌鼬を避け、反動をつけて蜘蛛女に斬りかかった。魔物はやはり地中に逃げたが今度はディアスもそれを予期して神経を研ぎ澄ませ、気配で次の出現場所を察知するとすかさずその場へ走った。予想通り浮上してきた魔物。まだいくらか距離が隔たっているにもかかわらず、彼は剣を抜いて逆手に持ち替え、猛然と突進していった。
「疾風突!」
 魔物に体当たりすると同時に繰り出した剣の切っ先が相手の腹を突いた。突き飛ばされて地面を滑る魔物にディアスは止めを刺すため追いかけようとして……立ち止まる。レナがその魔物に向かって詠唱しているのが視界に入ったのだ。
「トラクタービーム!」
 彼女が唱えると、起きあがりかけた魔物の周囲を円筒状の光が覆う。光の内部の重力が逆転し、魔物の躯は宙に浮かび上がると加速をつけてぐんぐん上昇して、最後には空洞の天井に激突した。光が消えて重力が元通りになると今度はぐんぐん下降して、硬い岩盤に叩きつけられる。魔物は踏みにじった蛙のように無惨な姿で潰れていた。
 クロードとボーマンも同様に、いやそれ以上に攻めあぐんでいた。救うべきサイナードの子供を盾に取られていては迂闊に手を出すわけにもいかない。埒《らち》が明かない小競り合いのあと、魔物との睨み合いがひとしきり続いた。
「おい、どうするんだよ」
 ボーマンが苛立ち、クロードを急き立てる。
「なんとか隙をみて子供を奪わないと……」
 言いながらクロードはひとつの作戦を閃いた。
「攻撃をしかけた瞬間だけはあいつも無防備になる。僕が正面から向かっていくから、あいつが鎌鼬を飛ばした隙に、ボーマンさんは横からサイナードを奪ってください」
「それはいいが、二匹まとめて奪うってのはちと無理があるぜ」
「一匹でいいです。もう一匹は後から僕が奪いますから」
「よし、わかった」
 かくしてボーマンは魔物の視線からはずれて横へと移動していく。クロードはしっかり剣を握って構え、高鳴る胸を抑えるように深呼吸した。
 ふっと腹に力を込めて息を吐くと、クロードは床を蹴って魔物に斬りかかった。魔物は二匹の子供を片腕に抱え、もう片方の腕を振って鎌鼬を放った。今だ。
「くらえいっ!」
 ボーマンは懐から丸薬を取り出して相手の足許に投げつけた。地面に当たって破裂するとそこからもうもうと煙が舞い上がる。視界を阻まれ動揺している隙をついてボーマンが横から駆け出し、魔物の腕から一匹のサイナードを引ったくり、そのまま反対側へ駆け抜けて地面に転がった。
 続けて鎌鼬を躱したクロードが剣を捨てて魔物に向かって走った。煙幕が薄れ、相手がそれに気づいた。逃げられる。クロードが一気に飛びついた。腕の中の子供にその手が届く前に、無情にも蜘蛛女の躯は地面に沈み込む。つかまえようと突きだした手が空をきり、直前まで魔物がいた地面に腹這いに着地した。
「しまった!」
 クロードはすぐに膝をついて起きあがり、振り返った。そこには子供の片割れを奪われて逆上した蜘蛛女がいた。怒りのあまり我を忘れた魔物は鬼のような形相で腕に抱えたもう一匹のサイナードの頭をつかむ。
「やめろッ!」
 それを見たクロードが慌てて駆け出すが時すでに遅し、魔物は小さな頭を握る手に力を込め、一息にそれをひねった。鈍い音が洞内に響き、レナがそちらを振り向いた。
「あ……」
 魔物が子供を放す。サイナードの子は地面にどさりと落ちたきり、動かなかった。首があらぬ方向に折れ曲がり、眸からは光彩が失われている。
 ぐわぁおっ! 突然サイナードが暴れ出し、蜘蛛の糸を引きちぎって魔物に襲いかかった。魔物はすぐに地中に潜り、サイナードの繰り出した前肢は紅色の岩盤を砕いた。
 別の場所に現れた蜘蛛女に今度はクロードが狙いをつけて駆け寄る。相手と、そして自分自身に対する怒りのすべてを込めて、クロードは右手を掲げて振りかぶった。
「吼竜破ッ!」
 頭上に生じた闘気の竜はクロードが投げつけると空中を滑るように飛んでいき、目指す魔物を捕捉すると大口を開いて胴体に咬みついた。さらに余勢でそのまま突き飛ばして岩壁にぶち当たり、蜘蛛女は壁から突き出た水晶の塊に貫かれた。大小さまざまな水晶が突き刺さったその姿は、磔にされた標本のようでもあった。紅の水晶が魔物の体液でどす黒く変色していく。
 ──まただ。
 その一部始終を見ていたディアスは思った。吼竜破を放った瞬間、彼の背後にとてつもない影が見えたのだ。エルリアのときはただの気のせいかとも思ったが、これだけはっきりと映ってしまってはもはや見間違いでは済まされない。影は何かのかたちを成しているようにも見えたが、彼の鋭敏な感覚をもってしてもそれ以上を感じ取ることはできなかった。
 魔物が片づいてもサイナードの怒りは治まらなかった。前肢を壁に叩きつけ、傷ついた翅を無理に動かして烈風を巻き起こし、天に向かって炎を吐き散らす。すでに正気を失っていた。
「こいつはどうすりゃいいんだよ……」
 その暴れっぷりに怖くなったボーマンが、抱えていたサイナードの子を地面に降ろして、そろそろと後退りを始める。と、そこへレナが歩み寄って、子供を両手で抱き上げると親サイナードの許へ向かっていった。
「おい、ちょっと待て、レナ、危ない!」
 レナは構わずにサイナードの前に立った。それに気づいたサイナードが怒号のような咆哮で脅しても、彼女は怯まない。やがて少し落ち着きを取り戻すと、首を降ろしてレナの前に鼻面を突きだした。
「ほら、あなたの子供は無事よ」
 レナは腕に抱えた子供をサイナードに見せて、それから地面に降ろした。
「さあ、お母さんのところへ行きなさい」
 サイナードの子はゆっくりと親の前肢をのぼって、胸のあたりに潜り込んで見えなくなった。そこにどうやら子供を育てるための袋があるようだ。
「あなたもひとりでよくがんばったわね」
 レナはサイナードの鼻を撫でてやりながら呪紋を唱える。暖かな光に包まれて、全身の傷が、痣が、翅の破れたのが癒えていく。だが、サイナードはまだ彼女を威嚇するように低く呻りを洩らしていた。
「……まだ怒ってるの? ……そうよね、あなたの大事ないのちが、ひとつなくなってしまったものね」
 サイナードの視線が目の前のレナではなく、ずっと先にある子供の骸に向けられていることに、彼女は気づいた。激しい怒りが、やりきれなさが、深い哀しみが、この巨きなからだから伝わってくる。鼻の付け根に額を当てて、レナは震える声で言った。
「ごめんね……救ってあげられなくて、ごめんね……」
 鼻面を抱いて、涙を流すちいさな少女に、サイナードは呻りを止めた。眸の赤が薄れていき、澄み渡る空のような青に変わった。それは少女の優しさを受け止めた証でもあった。
 クロードは地面に転がっていた剣を拾い上げて、鞘に収める。
「クロードさん、いいんですか?」
 その彼にノエルが訊ねた。
「サイナードを従わせるなら、かれと戦わないと……」
「この状況で?」
 クロードは力なく笑って反問した。
「ナールさんに別の方法でも考えてもらいますよ。その方が、レナに嫌われるよりずっとマシだ」
 わざと明るい口調でそう言う彼に、ノエルは項垂れる。
「……ありがとう」
 クロードはなにも応えずに、仲間が集まる方へと歩いていった。
 レナはようやくサイナードから離れて、目の前で向き合う。
「じゃあね」
 手の甲で頬の涙を拭いながら別れを告げて振り返ったそのとき──サイナードが天井を向いて遠吠えを始めた。喉を振り絞り、あらん限りの声を出して吠え続ける。
「まさか」
 ノエルが信じられないというふうに目を──見開いているのだろうが実際にはあまり変わっていない。
「どうしたんですか?」
 クロードが訊くと、ノエルは食い入るようにサイナードを見つめながら。
「これは戦いのあとに、敗れたサイナードが相手に服従を誓うときの鳴き声だ」
「それじゃあ、まさかレナを主人だと認めたっていうんですの?」
 レナは振り返って、再びサイナードの前に立った。サイナードは遠吠えをやめ、従順そうに彼女を見つめている。
「力を、貸してくれるの?」
 レナの言葉に、サイナードはきゅうと鳴いて応えた。



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【ひとくち解説】
 ノエルとアーティスの関係って、ゲームではほとんど出てないですよね。こういうサブキャラを掘り下げていくというのも、長編小説の中でのアクセントとして良いんじゃないかと思います。
 最後のサイナードの鳴き声、連載当初は「ぐぅ」でしたが、なんか合ってなかったので変更しました。ぐー、って、カーくんじゃないんだから……。
posted by むささび at 16:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説SO2